クリアであること、敏感であること。

2014-03-29 17.25.29

ある出来事の意味付けは自由だ、と思う。

『ただの偶然』と思うのか『メッセージがきたよ』と思うのかもそうだと思う。

起こる出来事のすべてに意味付けをしていると、窮屈だしただの面倒なちょっと危ない人になってしまうけれど、あとから『さっきの出来事はこの暗示だったな』なんて言う気付きは多少ならずともあるのではないかと思う。

そんなのこじつけ。そう思う人はこの先を読んだって楽しくないと思うのだけれど、『そうとも言える』と思った人には少しなりのヒントになるかもしれないこと。

クリアにいるというのは自分の問いかける内容もそうだけれど、素直に気付けるための精神状態が大事な気がする。中庸で森林で深呼吸したような安堵感みたいなものがあればなおいいと思う。

『願い事を叶えるためには、本当に願って、その実現を信じたら一度忘れることだ』
そう、とある本に書いてあって。

その心は、その願いがもう自分の中で当然起こるものとして、自分の中に日常あるものとして落とし込む。日常当たり前にあるものだから、敢えて引っ張り上げないし、ずっと抱きかかえない。この解釈にも通じるところがあるような気がする。

そうやってクリアでいると、何らかの知らせはくる。人間ってそういうことをちゃんと感じられるように作られているはずなのに。(以下自粛)

私は何もそれで感じたことをすぐに実行したり信じたりしなくてもいいとも思う。でも、うっすら自分が『これは多分だめ』とか『大丈夫』と知っていることこそが敏感であるということなのではないかなぁと思う。

うっすらとでもいいから、それを感じてさえいれば不用意なサプライズがない。ということは、心の準備ができているからいつでも対応できる自分になれる。

多くの経営者が禅や瞑想をする理由の一つはここにあると思うし、こんな風に自分の生活や仕事に生かせない禅や瞑想はやっていないに等しい、己にも社会にも資するものにはなりはしない。

世の中には占星術やカードやいろんなものでそういう意識を引っ張りだしたり、意味付けすることも今や一般的になっている。私も延々そういうのにはまってきたし、価値を置いてきた。それで無理くり流れを作ったり意味付けをしたりもした。

占星術に関しては今もお世話になっているが、自分で星の配置を読み解くだけの能力がないので4人ほど意見が違うプロの解説を全部見て、自分なりに見ることにしている。そうすると、読み手を怖がらせたい人、楽観的な人、いろいろな要素がうまく混じりあってちょうどいい感じの頃合いになる。

敏感さにバイアスを持ち込みたくないと思ったときにこの方法を思いついた。これもふありと降ってきた直感。
これが良いという意味付けも、いやいやだめだという知らせだと言う判断もすべて自分の心の奥底が本当はその決定でいいのかって知っているということに気がつけるか。気がつけている自分でいたいといつも思う。

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