波動を干渉させないために

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最近、波動についてもう少し深く学びたいなという気持ちが強くなってきている。

波動というのは、体の中に入れたもの、周りに触れているもの、全てに影響を及ぼして波紋のように形を変えてそのエネルギーを周りに伝えていくのだと思う。

自らがそのエネルギーの発信源として良い波紋の中心になることは、当然だし、自然心がけるところなのだけれど、人の生きる社会に生活するということはやはり様々なものに触れるということ。自分の中からも絶えず汚れたものが浮き上がってくるのだ。だから浄化して、汚れる存在である自分を常にクリーンアップしようと心がける。人間が生きるということの基本だと今では思っている。汚れる、だからキレイにする。この繰り返しで日々は成り立つのだ。

人は「汚れない」ということはないのだから。
いくら、いろいろな波動が身の回りにあっても、自分はそのバイブレーションに影響されたくないなとも思う。これも自然なこと。いつも身ぎれいにいる心算は、いつも整理整頓して、自分の身に置くものとそうでないものをきちんと選ぶことにあるのだから。

とはいえ、波動というバイブレーションにそんな選択権があるのかというと、結論から言うとあるのではないかと思う。波動のトーンを揃えないこと(なんだか昔言葉を教えていたことに通じる)で、そのトーンにはまらないでいる。

実はそれを言葉にしてそぎ落とすパワーがあるのが六根清浄の大祓だと感じている。
具体的な文言を読んでもらえれば、私がお伝えしたかったことの意味を感じとってもらえるのではないかと思う。

事実、六根清浄の大祓を読むと体の表面にバリアのようなものが作られるように感じるのが私には心地よい。何を見、聞き、触れ、感じようともそれは私を絶対的に侵すことはないのだという安心感をこの大祓を奏上することから得られるのだ。

この感覚、共有できるなら嬉しいなと思います。
今回お伝えしたのは、大祓の前半の部分。後半はまた違う意味で素晴らしいエネルギーをもたらしてくれる言葉が詰まっています。その話はまた今度。

六根清浄の大祓

あまてらしますすめおおがみののたまわく
天照皇太神の宣はく
ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり
人は則ち天下の神物なり
すべからくしづまることをつかさどる こころは すなわち かみと かみとの もとのあるじたり
須らく掌る静謐心は則神明の本主たり
わがたましいをいたましることなかれ このゆえに
心神を傷ましむること莫れ 是の故に
めにもろもろの ふじょうをみて こころにもろもろの ふじょうをみず
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
こころにもろもろのふじょうをおもひて こころにもろもろのふじょうをおもはず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
このときに きよく いさぎよき ことあり
此の時に清く潔き偈あり
もろもろののりは かげとかたちのごとし きよくきよければ
諸の法は影と像の如し 清く潔ければ
かりにもけがるることなし ことをとらば うべからず
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわち
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は則ち
ろくこんしょうじょうなり
六根清浄なり
ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり
ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに
万物の霊と同体なるが故に
なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし
為す所の願いとして成就せずといふことなし
むじょうれいほう しんどうかじ
無上霊宝 神道加持

✴︎ここではろくこんしょうじょうとなっていますが、私は普段ロッコンと発音しています。