触れることでわかること、変わること。

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小さい頃から、仕事帰りの母のマッサージをよくしていた。楽になると言われると嬉しかったし、私たちのような世代はボディータッチを家族ですることがなかったから、母との少ないスキンシップだったと思う。

どちらかというと体が凝るタイプだからマッサージが上手なのだと思っていたけれど、もしかするとなんとなく悪いところがわかるのかもしれない。

人によって差はあるだろうけれど、自分のパーソナルスペースは歳をとるにつれて、かなり狭まっていくのではなかろうか。そのせいか、日本に住んでいるときも極力電車には乗らなかった、というより乗れなくなっていっていたと言ったほうが正しいのかもしれない。

誰かに近づく、そして触れるというのは、親密さと愛情の証だ。
美辞麗句で想いを伝えてもいくら愛情を込めて見つめても、その距離が近づいて触れ合った時、おそらく無意識に相手の想いが伝わって来る。
だから触れ合っていたかったり、だから触れたくなくなったりする。(だからお仕事のテクニックで意識的にそういうのを使う人たちもいる)

どんな行為であったとしても、体に触れてしまうと実はわかってしまうのではないかと気がついた。
もちろん、セクシャルなつながり、手をつなぐ、いろいろなレベルがあり、親しさや性別によって感じ方の度合いが違うことはたしかである。
だけれど、触れると嘘なく伝わって来るというのはあながち間違いではないのではないかと思う。

先日、100歳のセラピストに取材したこの記事を読んで「相手にエネルギーや情熱、時間を費やすことが限られてきている」ことで「ふれあい」が減っている。必要とされ、愛されると感じるためにはふれあいが必要なのに、という言葉にハッとする。

わかってしまうということは、相手にも伝わってしまうということでもある。伝えたいし、知らせてほしい。近くにいる人に対する自然な思いを出す意識的、無意識的な状況が減ることで、人は疑心暗鬼になっていくのだろうか。

毎日、パートナーの体の痛めたところや、コリをほぐすマッサージを続けながら、心身の回復や愛情をただただ願う三昧の境地はトランス的な境地へ私を運ぶこともあった。

パートナーが私の素人ながらの手技で癒されることで、安らいでいく過程、信頼を深めていく過程と同じ工程をやっている側の私にも同じように伝わってきたからこそ、欠かさず続けてこられたのかもしれないと思う。

ここに私の好きな「相即不離」という言葉が意味を持ってくる。
相手が安らぐこと、癒されることと自らが相手によってその状態になることがぴったりと引っ付いた状態で離れることがないのである。

もちろん、そういう状態ができなければ欠かさずできなかったろうし、触れたいと思わなくなったかもしれない。

最近、アメリカでは「ハグをすると風邪予防になる」という論文が出たそうだ。いろいろな社会的な不和状況とハグをする回数が風邪をひく回数と症状に影響するという結果が出た。

つまり、ハグする回数が多いほどストレスが軽減されて免疫力の低下が妨げられたり、幸福ホルモンと呼ばれるβエンドルフィンやセロトニンが出て、ストレスを解放し、安心感をもたらすのだという。リンクはこちら

健康に良い、というのは経験的に感じてはいるが、こういった研究があると自分の感覚と一致していて興味深い。

こうやってつらつらと書き述べてみたが、端的に言うと「好意を持つ人と触れ合うことで、心身に好循環がおこり、その結果心身が安定し、健康でいられて、関係性も良好になる」ということだろう。

その触れ合う相手が人生の目的を共にするパートナーであれば、ますます望む未来やモノを引き寄せるという効果もあるはずだ。触れ合うことで願いを叶える地場が発生するのだ。このスパイラルに入ってしまえば、こっちのモノだなぁと日々感じる。心身一如のその先へ。

 

一事が万事

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日々を丁寧に生きていくことで、自分の心、むしろ肝に命じていることがある。

それが今日のタイトル「一事が万事」

例えば、美しくありたいと思った時、それは何を指すのだろう。見た目の美しさなのか、美しく着飾れることなのだろうか。

「美しく、ある」ということだからそれは見た目だけではなく、言葉使いや人に対する思いやり、全人格、存在そのものを「美しく」あろうという姿勢なのである。見た目だけ綺麗にして、部屋が汚いとかは「美しく、ある」とはならない。

そういう姿勢で毎日の暮らしの一つ一つ、誰かとのやりとり一つずつをこなしながら積み重ねることが「美しく、ある」という状態を常に取り繕うことなく(まるでお客様が来たら、お通しする部屋以外がひっくり返っているような状態)「ある」ということなのだろう。

それが等身大ということだし、ありうべき自分の実践だろうと思っている。

以前はフェイスブックを通して仕事の問い合わせが多かったので、自己紹介欄には、お互いが尊重しあえる関係性を構築できる方とエレガントな関係を構築してビジネスがしたいと書いていた。

文章のやりとりだけではわからない、という人もいらっしゃるけれど、私は結構いろんなことがわかると思っている。まず、ビジネスの姿勢はどんなメールアドレスで、自営業なら独自ドメインかどうかで判断できる。どんな言葉を使うのか。きちんと心のこもっていると感じられる挨拶をするのか、定型文なやり取りか、相手の返信が待てるのか。些少のことかもしれない。だけれどそれが「万事」に通じる。

そもそも、逢わないとわからない、なんて時は十分に語り尽くす努力を果たしていないのではないかと思う。だって恋人や家族じゃないんだから、どうしてそんなすぐ知らない人とビジネスだからってお目にかからないといけないの?って思う。こんなにいろんな通信手段がある時代に。どちらも機運が高まって「会いましょう」となるのが私としては理想的だ。

メールが必要最低限の通信文だけになるのは、お互いがビジネスパートナーとして「使える」とお互いそれぞれ判断、信頼できてから、すなわちずっとずっと先のことだろうと思う。

今までの経験上、文章での違和感を押してわざわざ時間を割いてお目にかかって、きちんとした仕事につながったことがない。がっかりしたり、残念だったり、ブチ切れたり、キレられたり、いろいろである。

ということは、文章にしても、身綺麗にしておくということ一つに取っても、常に「一事が万事」自分がそのように見受けられるという覚悟をして表に出さないといけないのだ。

わざわざ、お家の片付いていないお部屋を覗かなくても、いつも片付いているかどうかわかるひとにはわかる。

もちろん、片付いていなくても平気な人もいるだろう。だって他人の家だから。自分が通される部屋が快適ならそれでもいいなら、そういう人はそういう人と付き合えば良いのだろうと思う。

人生の時間もビジネスをする時間も限られているから、必要なことを端的にやりたい。

東南アジア周りにいて、曖昧なことや適当なことがまかり通っていくことが、快適になっていかなかった私は、結果的に自分の中にある「律」に常に帰っていかざるを得なかったのかもしれない。それが結果的に、身を助けてくれていたし、その中にあって「私」を保ち続けられたのだろうと思う。

万全だと思っていても「ケチ」がついてダメになることがあるのだもの、それでも腐らないで行くためには自分のクライテリアを落とさず、じっと欲しいカードを待てるかどうか。そのカードが来た時に全身全霊で勝負がかけられるように己を整えていられるかどうか。それこそが「一事が万事」ということでもあるし、「修行一生、勝負一瞬」ということでもある。

毎日の暮らしもビジネスも同じこと、礼に始まって礼に終わる。全てはその人を表す鏡なのだから。それを肝に銘じて今日も、また一日。

 

願いを書くこと、願いを叶えること。

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最後にブログを書いてからずいぶん時間が経ってしまいました。

書きたいことがなかったというよりもむしろ、それを言語化して、自分以外の誰かに語るための何かが欠落しているような感じでした。

仕事として何かを書かずにすむようになるということが、寂しいと感じることがなかったと言えば嘘になりますが、無理くり絞り出す苦しさから解放されて、全く新しい興味関心の中に自らを没入させられることの楽しさを味わう時間がかけがえないのです。

そういう毎日を過ごしているなかで、やめたことがあります。
今回はそのお話しをしようと思います。

私は言葉が大好きですし、文字を書くのが好きです。
言葉で表現することの与えてくれる楽しみとは想像力の発露でもあります。

願い事をパソコンではなく、紙に記しなさい、それを見返しなさいというハックはスピリチュアルやさんでも仕事効率化でも女子系でも色々な人が様々な形で書いてきた、ここ数年で一番拡散度の高いハックのひとつだと思います。

御多分に洩れず、私もそのハックをかなり忠実に行ってきた一人です。やらないと願いが叶わないのではないか、とうっすら思っていたのかもしれません。

紙は神に通じ、言語化することで深層意識に深く浸透していく、何度も目にすること、文字にしたものを視覚としてとりいれることも無意識化の意思決定に影響を及ぼすという説明には一理あると思います。

だからこそ、何年も欠かすことなくやってきたのですけれど。

今から数ヶ月前、「そういう時期は終わったのだ」というメッセージのような気づきがきました。

全て願いが叶ったかどうか、とか書くことで叶うとか叶わないという次元から自身が確実に抜け去ったという感覚が、心の奥底から表層にぐっと浮き出てきた、私はそれを知っていたけれど、惰性や強迫観念のようなもので続けていたことを手放すときに来たのでした。

願いを叶えるということを意識化するということは、自分の外側に出す、ということでもあります。
もし自らがここでずっと述べてきたように、宇宙と一体であり、宇宙によって生かされ、自分の意思とは常に超越した何かと連携を持って希望や未来やなすべきことが自らの「意思」として表出するということを熟知しているのであれば、自らの外に出す必要などどこにもないのです。すなわち、自分そのものが宇宙や神といった超越した存在の意思、願望の発露なのですから。

願という漢字は
「形声文字です(原+頁)。「崖・岩の穴から湧き出す泉」の象形(「みなもと」の意味だが、ここでは「愿(ゲン)」に通じ、「きまじめ」の意味)と「人の頭部を強調」した象形(「かしら(頭)」の意味)から、きまじめな頭を意味し、そこから、自分の主張を曲げず、ひたすら「ねがう」を意味する「願」という漢字が成り立ちました。」引用元:http://okjiten.jp/kanji650.html

自分の主張を云々以前の問題、自分が宇宙や大きな存在の器として生きていくときに自ら発願しつづけるというのは、当然相いれないもの。

結果として自分が神様、宇宙の器として在ることができているのだ、という安堵感は、昔の自分が一生懸命に何かを「整えよう」としていた名残を一つ手放せた証なのかもしれません。
今の私はそういう経過を経て、美しく宇宙と調和した有り様に整っていると心穏やかにそれを感じられているのが良いのかもしれません。

もちろんこのような三昧に到達できているのは、パートナーのおかげでもあるし、それこそ何年もそうやって願いを書き続けてきたことにあるのだとも感じつつ、これからはより宇宙と一体化して願いというものが自分の人生や生き方と一体化した状態を楽しむつもりでいます。

目線をあげて見えたもの。

11667539_883839434987179_564654601219064732_n(写真はお借りしました)

このブログでは何度か姿勢の話を書きました。

姿勢・呼吸・意識付け
姿勢と呼吸、あごを引く

あごを引くことや姿勢によっての変化も含めて実践することによって心に及ぼす影響も少なくないということを身をもって知ることになりました。

丹田に力が入り、肩の力が抜けていくと「姿勢」は良くなるのですが何だかまだ自然な姿勢の美しさとして足りない何かがありました。

私はいままでどちらかと言うといつも伏し目がちでどちらかというと顔が下を向いた、うつむいていたような気がします。日常、仕事で無理にでも上を向いて人と対峙している反動だったのかもしれません。

俯く(うつむく)、は体の状態を示しますが、しょんぼりしていて「うなだれる(項垂れる)」はうなたれる→うなじが垂れる状態から転じて、悲しい時や落ち込んだ時に頭を垂れた状態をさすようになったそうです。語源由来辞典

いくら背筋を伸ばし、あごを引いていてもうなじが垂れてしまっていては元も子もないわけです。

過程、というのはこういうものだなと思います。丹田に力が入っていない時に「うなだれる」ということまでは気がいかなかったり、理解がおよばなかったりするのですから。

コンピューターやスマートフォンといった電子機器をよく使うせいもあって、俯き加減にいることが多いことも影響しています。私も仕事柄10年以上、パソコンとスマートフォンにかじりついて背中を丸めていました。

今はスマートフォンなどの新製品が出ても全く興味もわかなくなり、手元にあるMacBookAirやiPhoneさえ仕事以外では触らないことが多くなりました。つい少し前まで「ガジェットおたく女子」を標榜していたのが嘘のようです。

なので、ステキなカフェに座っていても、ステキな相手が前にいても背中を丸めてスマートフォンをいじっている人達を見ると、「少し前まで自分はこうだったのだな」とよくわかります。

視線を15度上にあげることで、より周りが見え、相手が見え、自分が見えるようになりました。
俯き加減にいた時とは気分も当然変わります。

姿勢や呼吸を整えるということは結果的に目線や気を内に籠らせないでいる最上の状態を常に形成することだという結論に到りました。
気を張ってきちんときれいにいるのではなく、自然で一番リラックスした状態が、結果美しいということでもあります。

内にこもることで曇っていた眼をさらに開いて、美しい有り様を磨いて次にいければと思っています。

足を洗う〜パートナーシップ〜

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写真はウェブからお借りしました。

時代劇の映画を観ていて、武士のご主人が戻ると土間で奥さんが「お戻りなさいませ」と足を洗う姿が美しいなと思っていた。ローマを舞台にしたヨーロッパの時代劇でも、戦士である主人が戻ると妻が彼の足を洗っているシーンがあった。

大切な人の足を洗う、というのは敬意を表すための美しく正しい行為だなと深く感じた。

このブログでも何度も書いているように、100の言葉を紡ぐよりひとつの行動によって示すものに価値を見いだせる同じ価値観の人でないと理解しづらいかもしれない。

今の時代、女の人も強くなって、外に働きに出ている昨今、「そんなのやってられますかいな」という風潮も十分理解している。だけれど、自らが愛し尊敬するパートナーにそんな想いが芽生えないの?と思う。

「足を洗う」とは語源由来辞典によると
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聖書の中にも実は足を洗う話がある。
「ヨハネによる福音書」 13章1節~11節、最後の晩餐の際、イエスが弟子達の足を洗う記述がある。詳細はこちら

昔の道路状況と靴では出先から戻ったらまずは汚れた足を洗うことでようやく「外」から「内」への切り替えをしただろうし、不自由な履物を脱いで足を洗うことで出先での疲れも取ったのだろうと思う。

また、スピリチュアルでは邪気は足裏から出ると考えられている。外で触れて来たであろうものや自らの内部に生じた「邪」なものを水で洗い清めると言う意図があったかどうかは分からない。だけれど、それらを内部に持ち込まないことに結果的に一役買っていただろう。

「足」というのは上下でいうと下、穢れやすい部分と考えられている表現やエピソードはここに紹介しなくても日常的に使っていると思う。

足を洗うということは聖書の中でイエスが言うように、清められる行為、そのものと言っていいのだろうと思う。

話を最初に戻そう。
映画の中で妻が夫の足を洗うという行為に無事の帰宅への安堵と喜びを感じながら、清めることに純粋な愛情と感謝のひとつの表現として私は美しさを感じたに他ならない。

宗教においても象徴的に「足を洗う」という所作が使われているけれど、「家」こそが「神殿」だと思えば同じコンテクストなのだ。だから常に整然と浄化されていないといけない。

「マダムはお花が好きですね」とお買い物から戻ると、周りのローカルの人達がいう(いくらで買ったかも聞かれるけれど、適正な価格で買っているらしい)。清浄で整った場所でないとお花も飾れない。家が神殿だと考えれば、神殿には花を供え、いつも良い気を放つよう心がけられたらとおもうのである。(お花がすぐ枯れるのはその場所に問題があると言うこと。センサーの役目も果たしている)

今の世の中、そんな風にパートナーの足を洗う人がどれだけいるのかわからない。でもたまには感謝の気持ちを込めて背中を流してあげ、心を込めて洋服を洗ってあげることだって、「足を洗う」という感謝に通じるのではないかしらと思う。

近頃、「尊敬」ということを良く考えている。愛情と尊敬。
どちらもパートナーシップには不可欠だと思う。
自分のパートナーに「あなたは素晴らしい」と心の底から言えるパートナーシップを築けていない人達の多いことにふと気がつかされる記事を読んだとき、殺伐とした気持ちになった。「歯磨き粉を歯ブラシにつけてあげる」位のことで、「女は家政婦か」と言われてしまったら、「足を洗う」なんて「男尊女卑」も良いところなんだろうと思う。

「おかげさま」という気持ちを表現してもらおうが、「自分の手柄」にならないことが面白くない人が多いのかもしれない。

自分の手柄がパートナーと彼の成功そのものである、と思えばその気持ちは満たされるのか、と考えるけれどそれもどうなんだろうと私なんかは思ってしまう。

結局、人間は誰かに認められたくて、損得勘定をしてしまうが故に、自分が信じた人にただただ尽くし抜くのは幻想なのかしらん。

結局、尽くし抜くということに対して「損得」ではないにしても何かしらの充足をパートナーによって与えられる、そばにいることで感じられれば、それほど難しくないと思う。(大前提として、お互い深く愛し合っているということがあるだろうけれど)

世界の東西いずれにも、「(主人の)足を洗う」という行為があったということは普遍的な意味合いをもたせても良い気がする。だけれど、時代が変わり、社会が変わると何か根本的な本質を見失い、自らの性差は特長ではなく差別の対象となってしまった。

ただ一人、自分だけのことをしっかりとすることはさほど難しいことではない。それもそれなりに楽しい。ただ、1はいつまで経っても1で、2にも3にもなりはしない。その虚しさを知っている人(一対)だけが、1+1の以上の何かにたどり着くべく淡々と歩めるのかもしれない。

そういう時間を意識的に積み重ねた日常だけが本人達も想像だにしなかったような境地へ足を踏み入れさせる。

陰陽バランス、対の法則

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「腹筋をやったらそれと同じだけの背筋を」と叶姉妹が書いていたのはあながち間違いではないなと思う。

私は何年間も思考や精神的な世界にばかりシフトをしていたけれど、それが自らのバランスを欠く原因になっていたことに気がついてからは随分身体を動かすようになって、その結果それが思考やもう一方の世界にも好影響を与えることを肌身で感じるようになった。

いろいろな病気の原因がスピリチュアル的なものや感情のバランスを逸したことに実は起因しているという記事が最近多くみられるのも今までの人生の中で何度も繰り返し経験して来たので納得することが多かったりする。

身体の右側をいためるとかばっている左側が痛んでくるという経験も身体という組織の中でのバランスを欠いたからに他ならない。

身体と心だけではない、身体の左右、腹筋と背筋、あらゆる組み合わせで「対」となるもののバランスが大切なのだと最近感じている。

腹筋だけをやっていると背筋とのバランスが悪くなって、痛みを引き起こしたり怪我の原因になるかもしれない。それだけではなく、足、腰など直接の部位ではないところに急に痛みが生じたりする。それはバランスを欠いたことが結果的に振動や波動のように他の部位に広がった結果、負担がかかりやすいところ、弱くなっているところに何かが生じる。

何かが何かとして独立して存在しているということはもはやない、ということをもっと認識するべきなのである。

すべては連続してつながっており、何かが変わると波動が共鳴したところから変化を生む。
周りにあるものはすべて固定されたものではなく、自らや周りとの波動によっていかようにも変化し得る。

何かひとつのものに執着しても仕方がないのはそれ故なのである。

自らの波動と共鳴するものが集まった状態こそが「ありうべき」なのかもしれないけれど、それも状況によって変化し得る。

「対」としてみるべきものの組み合わせは常に変化するけれど、その組み合わせだけは間違ってはいけない。

間違った「対」では上手く共鳴しないから、波動が純化してドラスティックな変化を生みにくい。組み合わせをたくさんもっているということは共鳴が鈍化するのと同じことだといえる。

要するに、効果が出にくいし、結果になりにくいということだ。

こういう法則が見えて来たとしてもそれを恣意的に動かそうとしないで、上手く感性と思考のバランスを取りながら行動をして行くことが必要。

目的にだけフォーカスして、柔軟に前向きに愛情と感謝をもって日々を生きる。

感謝も対の法則でいえば、「感謝する」と「感謝される」のバランスが良い方がいい。もう少し「ありがとう」と人様に言ってもらえるようにできればと思っている。(そのためにはもう少し人とコミットしないといけないのだろうけれど)

生きるために死にいく

「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠聞書の有名な一節だけれど、武士と言う職業として「生死」の境を常に感じ行った一言なのだろうと思う。

いろんな解釈があるけれど、私は「生きる」と言うことをより深く考え、「生き抜く」ための「死」を見つけたのだろうと思う。

こんな風に感じるのは、日本から遠く離れた常夏の国で侍映画ばかり見ているからかもしれない。笑
どうしても生きて戻りたいと言う姿勢は「死なないで戻る」と言う手段を考えるからだ。

そんな状況では、武道の稽古のようなきれいごとではなく、相手に泥をかけてひるませて叩き切ることも「生きて帰る」ためには必要なのだから。そんな「藁をもつかむ」想いで日々を生きると、くだらない間違ったものを掴むこともあるし、千載一遇の機会をつかむこともある。

いずれにせよ。私も「藁をもつかむ」想いで日々を生きて、笑ってしまう程しつこくその藁を手放さなかった人間だ。

私には生きて帰って待っている人もいなかったけれど、何かを全うしたいと言う想いが強かった、のかもしれないし、ただただ、人の何倍か我慢強かっただけなのかもしれないし、ただの阿呆なのかもしれない。

侍映画の重たい話ではなく、今回は「食べる」話と心身との関係について。

日本を離れる時間が長くなり出してから、薬品の入った食材に敏感になり、身体がノーと言い始め、人工調味料も受け付けなくて、外食も湿疹のかゆさ覚悟で行ける店を選んで行くようになってもう5年以上になる。

気をつけても気をつけても治まらないかゆみには本当に閉口し、醜い患部もストレスになった。

今いるこの国でもあまり改善は見られないでいたのだけれど、パートナーの食生活がどんどんと変化し、私が前の国にいた時と同じ、一日一食になってしまった。元々あまり飲まないお酒もますます減り、デザートやおやつがテーブルからなくなった。
「18時間断食」をすると、お腹がすいてから食事をするので、身体にも良く、体調が良くなるので精神的にも安定すると言うので一人ではずっと実践していたけれど、これに「糖質」を控えると言うのが加わった。

以前、周りの人がこの糖質制限でお肉ばかり食べていると聞いて、何だかバランスが悪いなぁと思っていた。
炭水化物や甘いものをぐっと減らすことで驚いたのは、「糖質はこんなに眠くなるのか」と言うことだった。食後すぐに眠くなった経験などない私が起きていられない程の睡魔に昼間から襲われるようになったのは糖質を減らすようになってから。

お肉を食べると身体が重いと言うのは思い込みだったのかと言う位、お肉も普通に食べられるようになった。
お腹がすいて、食べるのが楽しみになるから、その日一日の食事(ほぼ一食)をとても大事に楽しみにするようになったとも言える。

そんな生活に慣れてくると「食べると言うことは死に近づく」と言うことだと話し合うようになった。
それほどのエネルギーを「食べる」と言う作業は身体に課している、まさに体感する一方で、気をつけていると思いつつ、どれだけ無防備に無自覚に身体に入れていたのだろう。人間の身体は食べたものから成り立っている。

自覚的に食べて行くことで、自分の身体とより深くコミュニケートできるようになって行く自分がいた。

もちろん、炭水化物や糖質が悪いと言うのではない。相変わらず、チョコレートはついつい手が出るし、おいしいパンやお米もいただくけれど、今までのような量を身体に入れることは決してない。楽しんで、八分目程で止めるのだ。(単にその後、眠くて何も出来なくなるからかもしれないけれど。笑)

食べないで70年程生きていらっしゃるヨガの行者さんもいらっしゃるし、日本では食べないで数ヶ月過ごした俳優さんも話題になっていたけれど、私は死に近づこうが、生きるために、楽しみ、味わうために食べると言う行為を続けたいなと思う。

パートナー曰く、「食べたいものを食べる、身体の欲しているのだから最善。」
その通りだと思う。

食べるものに迷いがなくなって、改めて出来るようになったのは「長めの咀嚼」である。
食べるテンポと言うのは一緒に食べる人がいると意外と重要で、ようやく長めの咀嚼が上手くできるようになって来た。

感謝しながらかむ。飲み込む。
今まできちんとやっていなかったことを後悔する程、身体の中から澱が出て行く契機になった。

半年以上続いた湿疹も口に入れるものと入れ方を整えて、ようやく完治。

よく生きると言うことはよく死ぬこと。
そのための心身の整え方にもきちんとしたベースが出来た気がする。

習慣と意志、波動。

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毎日を誰かと過ごすなんていうのは何年もなかったことだけれど、一人も楽しんでいたけれど、自分の大切な人に尽くして過ごせる毎日というのは格別なもの。

一人で暮らし始めた頃、放心状態だったのか、暮らしが随分荒んでいた頃があった。そこから立ち直るために私がしたことは、「自分のためにいろんなことをする」ということだった。

「一人だからいいや」と何でも乱雑や怠惰になることがある。それを「たまのご褒美」として楽しむ人もいるし、「それよりも大切なものがあるから」とエクスキューズするのも自分もそう思いがちだったのでわからなくはない。

だけれど、日々の暮らし以上にプライオリティーをもつものが果たしてあるのだろうか。

「ご褒美」としての怠惰さや乱雑さは、心身を荒ませて、運も離れていくのを感じた私は強制的に「習慣化」することにした。ある調査によると人は21日以上継続できると習慣として身に付くと聞いたことがある。意志の問題を超えてやれるようになるのは確かにそれくらいなのかもしれない。

朝の掃除、お祈り、「習慣」と銘打つのには疑問をもつようなことも私は「毎日すること」のリストに入れて、毎日やったものにはチェックを入れた。何十もあったそのリストにすべてチェックがはいると何だか嬉しくて、また明日もやろうと思ったものだ。

私のように毎日会社つとめでない人間にとって、日々のルーティーンで自分を律することが昔から自然だったから、元々性に合っていたとも思う。

そうやって、日々の暮らしを整えることには「習慣」という一般的な意味とは少し違うニュアンスを持っていることを感じてもらえるかと思う。ただ、無意識に毎日行うことも「習慣」なのかもしれない。だけれどそこに「意志」を持って「習慣」とすることの先に意外な世界があるのだ。

三日坊主という言葉があるように、暮らし向きを整えるにはある程度の意志を必要とする。そのためには「何をその習慣をもって得たいのか」というイメージが自然とあるはずで、それがないと「無意識」の習慣に押しつぶされてしまうのだ。

リストを寝る前にチェックする生活を数ヶ月して、私の暮らしは落ち着いてゆき、それと同じように気持ちも随分落ち着いた。生活を整えることがすべてに通じるということを身をもって感じた大切な経験だった。瞑想よりも写経よりもお寺巡りよりも、自分の食べる物を丁寧に作って、よく噛んで食べ、感謝して居住まいを整える以上の心身のベース作りはないとその時に知ることになった。

生活を整える、ということがなぜ心身を整えるのか。
整えるということは、余分なものを処分し、整然とさせること、すなわち浄化なのである。

昔知人で一週間お風呂に入らないでも平気だという人がいたけれど、毎日の暮らしを粗雑にするというのは「におわないから汚くない」といって、日々身体からでる垢や汗をそのままにし、外でまみれた埃をまとったまま眠るのと何ら変わらない。残念ながら「愚鈍」だからそういうことに敏感ではないのだろうと思う。

どうして「愚鈍」でいられるのか。それは「整然」とした「浄化された」状態をしらないからである。

日々風呂に入り、自らの汚れを落とす時、わたくし、人間とはいかに汚れた存在だろうと思う。
そこに善悪、正誤の判断はいらない。「私は今汚れている」という事実だけがある。
自らを汚れていると忌み嫌うのでも、許しを請うのでも、神様に頼るのでもなく、「日々清くあろう」と決める。
「汚れているなら、きれいにすればいい」
ただ、それだけなのである。

さらに身体を動かすということ、イコール身体を整えることも同じ流れ、浄化の一環だということ。

これらの浄化のための日々の習慣は義務でも何でもない。だけれど、感謝をもって行えるようになると荒んだ怠惰な生き様とはかけ離れた毎日を送ることになる。

それは、「清浄であろう」という行動を心身が求め、その習慣こそが快適な状態に変化するからである。
人は快適であることを求める。その快適を阻むものが今まで「快適」だと思い込んでいたものだったりするのだから面白い。いずれにせよ、「不快」なことに人は敏感だから、快適さを追求するとますます清浄さを求める。

そのサイクルから生まれるものは「善」と呼んでも良いのかもしれない、と思う。

毎日毎日の浄化は数年来の汚れすら落としていく。大掃除も必要だけれど、毎日のクリーニングが一番だ。

そうやって日々自分に向かい合うことでの気づきのなんと多いことか。

私は数年来、一人でずっとそうやって暮らして来たけれど、パートナーと一緒にいることで浄化のすごさを改めて知ることになった。浄化しあうということ、浄化した環境と感謝が満ちることでどんどんと良い波動が高まり、強くなっていく。

波動はバイブレーションだから、清浄なものの方が当然、よく伝わる。
良い波動が良い波動をどんどん生み、引きよせ、ハーモニーを奏でる。
こんな美しい調和で宇宙は満たされている。
それを日々体感し、宇宙との調和を実感している。

SNSを使って望む未来を引きよせる。

IMG_3992(写真は借り物です)

Twitter位からはじまって、Facebook、InstagramやPintarestなどなど、スマートフォンやパソコンをあけるとSNSを数珠つなぎに使う人も少なくないと思う。

昔は私もそうだったなと思う。数年前は定期的にSNS疲れに陥って、もうみたくない!みたいな気分になることもあった。
今はリア充なおかげで?あまりSNSに執着もしていないけれど、それにはリア充以外にもうひとつ理由がある。

SNSの使い方を変えたのだ。

SNSをみるのがイヤになっていた頃は「誰かとつながるツール」や「何かを伝えるツール」として使っていた。

実際にあわなくてもつながる、というのは便利な反面、見えない束縛を自分に課すことにもなりうる。
だからイヤになる。

誰が何をしているのか、どこで誰といるのか、何を食べたのか、そんなに興味があるのだろうか。
そこから流れてくる写真は自分の基準で楽しくて美しいのか。

そうでもないことが多いから、面倒にもなる。

それなら、自分のみたい物が常に流れてくるようにアレンジすればいいのだ。

今いる場所にしばりがあっても、オンラインでは世界中どこへでも行ける。ギリシャ、イタリア、オーストリア。山の上でも美しいサンセットを砂浜でみることも。

日本の美しい寺院でも好きなブランドのお洋服でもなんでも。

自分の美意識にあうものや人をフォローしていくとそこには「自分が美しい」と思うものが満ちてくる。

もちろん、大前提として「自分にとっての美しいもの」がわかっていなくてはいけない。

それがわからない人にとっては、タイムラインにそれを映し出すことで自らを知る作業にもなりうるかもしれない。

この国に来る前、一人大きなデスクに座ってSNSのタイムラインから流れてくる美しい景色やモノ達でどれだけ癒されていたかわからない。イメージできる世界が広がり、自分がまるでそこにいるような感覚をもてるようになったことに随分と役立ってくれた。

インスタグラムやピンタレストといった写真、画像が中心のものは、全体でみることによって自分の美しいもの、好きなものに対する全体的な傾向を掴むことも出来る。

自分の意識を包括的に客観視するということはなかなか文字などを通しては難しいので、これまた面白い。

足を踏み入れるには敷居が高いと感じる世界もSNSの中ではもっと気軽なものであっていい。そこでならしていればいつかその現実が自分に近づいてくる。

SNSのタイムラインは自分の思考の反映だと思えばいい。不安が多い人は不安になるようなものをたくさん選んでいるし、仕事や営業用ツールだと思っている人はそのような記事で溢れているだろう。そう思って自分のタイムラインを見ていると、そこには「他人の動向」でもなんでもない「私」がある。

「ありうべき世界」を一番シンプルに具現化できる場所。それが実はSNSのタイムラインではないかと思っていたりする。

未来への生き方と過去

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科学技術がますます進歩し、国の境がなくなっていく。

国の境をまた取り戻そうという動きやたくさんつけた機能が「いらない」となってシンプルさが喜ばれていたりする。

人間や社会はいつだって「より良い状態」という意味での「進化=化けることで進み続けること」を求めている。

人間が地球の上でいろんな仕組みを作り、ものを作りして来た連綿時間の中でこれほど「煮詰まっている」という感じがするのは今だけなのだろうか、新しいパラダイムの模索の中でルネッサンスなんかは生まれて来て大きな風潮へと変化をしたはずなのに、古いものを「焼き直し」としてしか見いだせないのはなぜなのだろう。要するに、なぜ「美しく」ないのか。

パートナーが古い書画や車のサイトを眺めては「今はもうこんなの作れない」と嘆息しながら言う。
当時の作り手の息づかい、卓越した技術、手仕事を彼は常に賞讃し、彼らとともに生きた人のようにそのスタイルと有り様を理解する。

確かに、それらには「美しさ」と「重厚さ」はあっても「軽薄さ」みたいなものはない。

彼らも今の職人や作り手との想いにちがいはないはずだ。だけれど何か決定的なものが違っているような気がする。

若い頃、生まれてくる時代が遅すぎた、と感じることがよくあった私だけれど、何が「早すぎたり、遅すぎた」と感じさせていたのだろうか。

人の営みや作り出すものの「行程」には大きな差はない。それは先進国であれ発展途上国であれ、時代であれ程度の差なのだ。では何が決定的に違うのかというと、「ありうべき世界」というものをもっているのかどうか、なのではないかと思う。

「世界は美しくあるべきだ」という絶対的に揺るがない何か。それは「ユーザーの利便性」だとか「マーケティング」とか「コスト」を絶対的に凌駕するものであるはずで、そういう「グランドプラン」がないと結局は「手先」の技術でしかなくなるのではなかろうかという結論に達する。

国の有り様だって同じことが言える。こうあるべきだ、というグランドプランを提示する北の大国のリーダーが世界中から羨望と注目を浴びているのは、今多くの国が国民のニーズやウォンツ、海外からのそれらに汲汲と振り回されているからこそであろう。

日々の生活を大切に生きること、小さなことに感謝することの大切さと同じ位、大局でのありうべき姿、自分の立ち位置を見つめなければ日常はただの「毎日」となる。

私が十代のとき、留学した国から去る直前、「彼らは生まれて死ぬまでこうやって毎日、一年を暮らして年老いて死んでいくのだ」ということに気がついた。私はそんな風にして生きていくことは出来ない。彼らと自分のちがいを決定的に感じ、別離を決めた瞬間だった。

「進化」という「美」を「グランドプラン」としてもち続けていることが日常の手先指先からこぼれ落ちる技術となりうるのだということを古いものは教えてくれる。

「インスタント」で「手先器用」な世の中にあって、古いものを見直すということは実は過去の再評価を通じて未来すなわち、「現在」の「グランドプラン=ありうべき世界」を模索しているということになる。

美しさというのは何も美醜だけを言うのではなく、その姿勢を指す。
常に「ありうべき世界」を模索してそれを日常ににじませる、そんな日々を送り続けていきたい。
それが未来へ大きな寄与となる一端になると確信しながら。