滅私と立場〜人の間に神様が〜

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ここ数年、意識的に人との関わりを最小限にしているのだけれど、元々の仕事柄、裏方の仕事や秘書的な仕事は一般的な人よりはずっと手慣れているし、苦にもならない。自分の成果にダメ出しをすることはあっても、ひけらかしたり、大きく見せるのも自分らしくない。仕事ではないが、仕事という体裁でやっていれば誰に迷惑をかけるわけでもなく、こなしていけるし、こなしていたと思う。性格的にもそういうのが自分に合っているのだと思う。自分の性質として、数少ない自分のやりやすい、満足のいくやり方なのだろうと思う。

滅私とは、自分を利することを目的とせずに動くということだ。だけれど、社会というのはいつだって、ネームタグを必要とする。「お前は誰で、どういう立場の人なのだ?」「お前がそれをやって何の得になるからやっているのだ?」「それはこちらの利益になるのか?」

今まで幾度となくそういう問いをされてきた。

そういう疑心暗鬼の中に身を置くと、自分の本意や真意を理解してもらうことが億劫になる。こうやって他者との関わりに苦手意識を持つことになるのだけれど。

東南アジアで仕事をしていると、チームだと思っていた相手にすら、こういう理由で梯子を外されることがあまりにも多いのも事実だ。どこにいても、そこに入りきれないから自分から遠慮したり、いづらくて場を離れるというのはもうずっと前からのことだ。それは自分で仕事をし始めるずっと前からで、今に始まったことでは全くない。

まぁ、それはもしかしたら私自身の心の弱さゆえのことなのかもしれないし、一人でも苦にならないからそうしてしまうのかもしれない。一人でいると自分の立場だとかありようは自分が決めた、自分が納得したものでいいのだけれど、そういう自分のまま”人間社会”という”お外”に出ると、またいつもと同じ問いが繰り返される。

”誰々ちゃんのお母さん”も”通訳さん”も立派な立場であって、その場にいて妥当な人、それを行うに能うる人というポジションで好むと好まざるとにかかわらず、なすべきことをするのである。

子供の頃は、この家の娘というポジションがあるにもかかわらず、この場にいるのが妥当だという気がしないで、いつも両親の家に住まわせてもらっているような気がしていた。東京で一人初めて暮らしだして、初めて自分の家だという気がして(こちらが本来なら仮の住まいなのだろうけれど)、何もない部屋で一人ホッと安心して嘆息したことを昨日のように覚えている。

人と人間の違いは、魂の有無だという一節をどこかで読み、それは人と人との間には神様がいるからだという解釈が続けてしてあった。なぜかその一節を読んだ時、ふと、そうか、神様といるのが私は楽なのだなぁ、と思った。神様といる分にはそんなポジションなど気にしなくていいから。

滅私でいるのに、ポジションがいるなんてくだらないと思うし、ポジションを考えると”私は?”という問いが常に出てくることになる。それは、私という存在に実態があるからなのだ。

小さい頃、自分が透明人間だったらさぞかし楽だろうと思っていたことをふわりと思い出しながら、透明人間になれないのであれば、神様といるか、人間社会にいる時はそれ相応のポジションがないといけないのだな、と冷静に思ったりする。それは山には登山靴を履いていくし、パーティーにはピンヒールを、スキーにはスキー靴をというのと差して変わらないのかもしれない。

それが周りに訝しがられることなく(笑)自分らしくやりたいことをやるには必要で、それが満たされない時には、神様といるのが私にとっては気楽なのだなと思う。

 

(写真はお借りしました)

 

いいところを見つけることと。

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映画をよく見るようになったのは、淀川長治さんがなくなってから。今思うともったいないことをしたのかもしれない。でもまぁ、評論は評論だから。自分の感性でどう見るかが大事とはいえ、彼がどう表現していたのか聞きたかったなと思う。

ちょうどふと手元に落ちてきたように、横尾忠則さんの対談集を土砂降りの午後手に取った。いや、正確には数週間、表紙を眺めていたのだけれど今日、活字を読みだした。満月の日にちょうどいい内容。(謎)文字を読んでいて手がビリビリしない(本だから)のはいい。

その対談集の最初の相手が淀川長治さんだ。二人とも兵庫県出身で共通点が多い。編集の力もあるのだろうけれど淀川さんの飛んでる具合が素晴らしい。あんまり人の話聞かないけれど、相手や物事のことを言語じゃない情報で手にたくさん入れる人。

お二人の会話があまりにもシャーマニックなのがおかしい。

息を吸うようにあの世だとか無意識の世界や魂のことを語れる人をあまり知らない。私はパートナーに出会って初めて、思考がこんなにつながって、近しいスタンドポイントでものを見ている人も世の中にいるのだと驚愕し、また安心した。この対談集も多分そういう一冊なのかもしれない。

閑話休題

そういう部分ではなく、淀川さんの言葉に思い起こさせてもらったこと。

私が教育をしていく中でずっと大切にしていたことだし、生きる上でも大事にしていたことをサラリと彼は冒頭で話していた。人のいいところを真っ先に見つけてそれを伝えるということ。どこかホメようがあるのだという点。笑 例えば、見目も態度も悪くても、立ち方が良かったとか、座り方が良かったとか、ね。ちょっと立ち位置は違うけれど、すごくよくわかる。だけれど、その一方で美しくなかったり、あからさまに手を抜いていたり、愛情がこもっていないとかいう、自分が譲れない何かには決して引かない。

きちんと私はそういう人でいるかしら。
心が荒んで、できていないことはないかしら。
そんな風にはっと思ったのでした。

優しい目線と言葉にある凛とした物腰。

 

 

Stop & Go

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神様の言うとおりの人生をという話を延々と考えて、このブログにも書いていた。
カミサマノイウトオリ
カミサマノイウトオリ、バージョン2.0

カミサマノイウトオリにズルはなし。

あの頃の私はまだ初心者の域を出ず、毎日に”カミサマノイウトオリ”が息づいているのか、慎重だったように思う。そういう時間を過ごしたからこそ、滅私ということにもとらわれず、与える、与えられるといったものを凌駕して、解き放たれるような瞬間の連続を自らの生である、と認められるようになった。

とはいえ、生活なのである。生活とはそういった崇高であるはずの魂や意識と繋がりながら下世話なのだ。人間というものが生き、社会を構成している限り、汚れ、穢れ、悪も皆あるのだから。

そういうのに疲れた自分ばかり見ていた時は、出家をすればいいんだと思っていた。でもそこも同じなのだと気がついてから、もうそんな桃源郷を探すような愚行もしなくなった。ただ自分と自分の大事な人の心身、魂を美しく守るために生活をしようというシンプルさに行き着いた。欲なく生きるということは単純なのだ。

トップに載せた神様は”ハリハラ”というヒンドゥー教の神様で、ウィキペディアによると
”ハリハラ(Harihara)は、インド神話のシヴァとヴィシュヌの合体神。別名アイヤッパン。右半身がシヴァで、左半身がヴィシュヌ。ハリがヴィシュヌを意味し、ハラがシヴァを意味する。つまり、創造と破壊を象徴しているのである。
神々とアスラたちが、乳海を攪拌した時に、アスラ達がアムリタを神々に飲まれる前に全て飲み干そうとした。その事に気づいたヴィシュヌは、アスラ達を惑わすためにモーヒニーという美女の姿になって彼等を魅了し、その間に神々にアムリタを飲み干させた。その後、シヴァに一目惚れされ、一夜を共にする事になる。そうしてハリハラが生まれたとされる。ちなみにモーヒニーは『バーガヴァタ・プラーナ』ではヴィシュヌのアヴァターラの一つに数えられている。” 出典

この間、この神様にすっと導かれるような出来事があった。その時にはわからなくて、お名前を調べて合点がいった。相反するものを統合してただあるということ。何かをなすべき時には何もしなくても流れができ、決定的に事前にダメ出しが来る。今の自分に許されていること、導かれている場所は唯一無二なのだと示すかのように、破壊の神であるシヴァが鉈を振るう。

”無欲が一番強い”というのは本当なのだろうか。無欲から創造されるものは一体なんだろう。私には未だその答えがわからないでいる。もしかすると自分はただ、”カミサマノイウトオリ”に誰かに使命を受け渡すためだけにこうやって今あるだけなのかもしれない。そこで終了だとしたら?それでもいいのか、と問うことがある。”いいんじゃないの、それはそれで”と心のどこかで思っていたりする。

でも。もしかすると、私の気が急いているだけで、または気がつかないで、”カミサマノイウトオリ”に自分の使命も用意されているのかもしれない。いずれにせよ、ただ自分が器として上等で美しく、自らのありうべきに背かない、そんな魂のまま歩んで行ける道をポツリポツリとたどっていくだけなのだろう。

 

 

語るべきこと。

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小さい頃からおしゃべりだったのではないかと思う。

なんだかわからないけれど伝えたい思いや、理解して欲しいものがあって、それが書くという情熱や言葉にまつわる仕事に私を押し出していったように今は思える。

もう何ヶ月も集中して、今まで仕事にしていた言葉でない言語を独学で学んでいるけれど、どうしても今一歩身に入らない。本業の仕事ですら、なんだか足踏みしてしまって、仕事を断る基準値が随分上がって行っている気がする。

その一方で、読む、見る、考えるということに対してはオープンマインドだし、自由でいられる。多岐な内容のものをたくさん並行して読んだり、時間があると電子書籍が入っているiPhoneが手放せない。ガジェットオタクだった頃とは全く違う、iPhoneの愛用方法。これはこれでいい気もする。

 

自分の中にあって、なにより大事にしていた言葉というとっておきの糸を紡ぐための紡ぎ車がうまく回らない。紡ぐ機械がうまく回らないから、糸である言葉はなかなか出なくなる。

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「眠れる森の美女」はディズニーのアニメで好きな部類に入るのは、オーロラ姫が嫌な人じゃなかったかもしれない。そのオーロラ姫は、魔法にかかった紡ぎ針を刺してしまい、百年の眠りに落ちてしまう。

順風満帆なところで突然の悪意がオーロラ姫を襲い、それに抗うすべもなく、深い眠りに落ちてしまう、オーロラ姫。

でもそれは「死」ではなかったのが幸い。彼女を心から大事に思う人により彼女は永遠の眠りから覚めるわけだから、それが今このブログに無理くり言葉を紡いでいる私にも希望をもたせてくれる。

これは眠りであって死ではないということ。
言葉に対する思いと何かを綴るという気持ちは眠りこそすれ死んではいないのであれば、いつか行きを吹き返す時がくるはず。

多くの敵を倒し、オーロラ姫を救うために現れる王子様を今は気長に待つ時なのかもしれない。

とロマンティックすぎる言い訳かもしれないけれど、無力で何もできない自分を許してやるにはそういう演出も必要だということにしておこう。

眠れる森の美女は、アニメだけではなくて、バレエの題目としても有名。ストーリーをおさらいしたい方はこちら

 

 

シルクを身にまとうことでの変化。

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以前、知人に紹介された人がレメディなどの専門家だったのだけれど、体に触れるものはほとんどシルクにしていらっしゃるご様子もブログでよく紹介されていた。

美に対してかなり思い入れのある方でいらして、彼女の驚くべき徹底ぶりで保温、保湿、肌に触れる素材にものすごく気を使ってらっしゃっていたことをよく覚えている。

当時の彼女の足元にも及ばないのだけれど、シルクの凄さぐらいはお話できるぐらいになったかなぁと思う。写真は、とあるブティックの手織りシルク。ショップオーナーの女性に、あるシルク生地を持っていくと”あ、これは機械織りのタイ製ね”とすぐ言い当てられた。彼女のところはシルク製品がすくないのだけれど、それでも御用達のシルクの織物工房があるらしい。私が懇意にしている小さなブティックは皆自分の織物工房を持っている。これは実はすごく贅沢なのではないかしら。

この国だと、値段の分類は厚さ、手織かどうか、染料がヨーロッパかタイかで大体決まってくる。草木染めもあるけれど、日本人のNGOのものが中心。普通のブティックで見ることはない。
だいたいこの国だと生地とサンプルを持ち込みさえすれば5ドルで仕立ててくれる。

シルクの効果はサイトで見るとこんな感じ。
1 人間の肌と同じタンパク質で自然界で最も細い繊維。
2 吸湿性、保湿性、速乾性、保温性高い。これは本当に特筆。速乾性は綿の1,5倍だそうです。
3 18種類のアミノ酸で形成されているそうで、皮膚細胞を活発化させるので美肌効果や皮膚病が軽減することもあるそうです。
4 放湿性は高いけれど、保水量が高いので静電気が起きにくく、乾燥や肌荒れも起きにくいとのこと。静電気が起きにくいということはほこりなどを集めにくいのだそう。
5 紫外線を吸収してくれるので、お肌への浸透を少なくするそうです。シルクは吸収して蓄えた紫外線を徐々に発散して皮膚の消毒、減菌をして皮膚を丈夫にしてくれるそうです。そういえば、シルクのシャツを着てもらうようになって、身体の湿疹が消えた人がいました。
引用元:http://plaza.rakuten.co.jp/cloverB/013019/

手洗いでゴシゴシと洗ってあっという間に乾くのも、暑い国にいる時には本当に便利。さらりとして艶やかで、手織りのシルクで気持ち織りが厚い(3プライぐらいかな)なら透けないし、本当にいい。

昔は女性のストッキングとか皆シルクだったようで、きっとセクシーな肌触りで素敵だったのだろうなと思う。日本ではシルクが高級品扱いすぎて、大層なものになっているけれど、最低限の手を入れれば、長く心地よく、体にもよいものがいろいろあるのだなぁと思う。

バンコクの有名なお店のシルクの生地もワクワクしたけれど、ここのローカルで手に取るシルクの存在感がなんだか愛おしくて好き。

男の人がシルクを身につけるの。実はかなり良いのではないかと思う。シルクの下着を身につけるだけでも、先に述べたような効能があるし、お洗濯も簡単だし。タイだとお土産物屋さん的なところでも売っている。笑

以前、フェイスブックのビジネスグループに参加していたら、そこのメンバーの男性ほとんどがユニクロの下着で、あれは便利だと絶賛していた(早く乾くとか安いとか)。人と同じというのは安心感かもしれないけれど、自分の体に良いものだとか大切にものを扱うということとか、全てビジネススタイルや生き方にも投影されてくるのではないかしら、と思うのだけれど。(それにセクシーじゃないね、笑)

シルクを身につけだすと、体が正直になってくるというのが初めの印象。皮膚が自己主張始めるという感じ。これは好き、心地よい。これは嫌。その声を聞かずにその他の理由で身にまとっていたものに、明確にYes,Noを出されるというのが真相。そこから始まる変化の物語は新しい自分を知る楽しみといってもいいと思います。

まだまだ、シルクについて語りたい気分ですが、今回はこれくらいで。

身に合ったもの。

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フリーランスで仕事をし始めた頃に、当時人気のアナウンサー(今は大御所)がかいた恋愛もののエッセイが人気になった。彼女の文章力と表現力を持って織りなす様々な男性との恋愛についての持論はあの国の女性エッセイブーム先駆けとなったと言っていいだろう。

あまりにも辛口で表現が面白いので日本語にしたら話題になるかもしれないと数冊読んだのだけれど、その中の一冊に「合わない男といるのは、カップの合わないブラジャーをつけているようなものだ。」という一節があった。女性にしか感覚として理解できない許しがたい不快感の表現として今でも忘れられない。

実際問題として、合わないサイズのものを使っている不快感というのは、おそらく人によってまちまちで、私なんかは個人的にとても不快で仕方がないけれど、甘んじていると慣れてくる。だらだらと合わないものを許す体に自分がなっていっている気がしていた。これはある意味恐怖。笑 合わないものを使っていると「これでも実はいいんじゃないか」と思ってしまうのだけれど、実は違う、やっぱり全然違うのだ。

合うもの、フィットするものは体がしゃんとしてより自然体で心地よくいられる。

合うものを使っていると体が喜ぶというのは何も下着や靴に限ったことではないのだろうけれど、より肌に直接触れるもの、長く使うものほどその差が大きいし、そういうのに無頓着だとそれが外にも実は現れているのかもしれない。

でも実は自分に何がどのサイズが「合う」かを知らないと、こういう喜びというか、「合う」ことで得られる開放感を体験できないのではないかしらと思う。

道路状況の悪い国で、ピンヒールを封印していたのだけれど、履いても大丈夫なチャンスを逃さず、週に何度か足を入れるようになると、足がちゃんとピンヒールに「合って」くれる。この心地よさ、もう何年忘れていたろうという感じ。

肉体の持つこの感覚はちゃんと風化せずに残っている。自分らしく、美しくある有り様は自分の中にちゃんとあるのだという証でもある。

そんなことを思いながら身繕いをしていると、これって人との繋がりでもそうなのではないかしら、とふと感じる。自分にフィットするものを知らないと、「これでいいのだ」と思ってしまう。自分に本当に合うものを知れば、もう「これでいいよ」とは思えない。最善は最適ということ。

(写真はお借りしました)

 

 

 

 

波動を干渉させないために

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最近、波動についてもう少し深く学びたいなという気持ちが強くなってきている。

波動というのは、体の中に入れたもの、周りに触れているもの、全てに影響を及ぼして波紋のように形を変えてそのエネルギーを周りに伝えていくのだと思う。

自らがそのエネルギーの発信源として良い波紋の中心になることは、当然だし、自然心がけるところなのだけれど、人の生きる社会に生活するということはやはり様々なものに触れるということ。自分の中からも絶えず汚れたものが浮き上がってくるのだ。だから浄化して、汚れる存在である自分を常にクリーンアップしようと心がける。人間が生きるということの基本だと今では思っている。汚れる、だからキレイにする。この繰り返しで日々は成り立つのだ。

人は「汚れない」ということはないのだから。
いくら、いろいろな波動が身の回りにあっても、自分はそのバイブレーションに影響されたくないなとも思う。これも自然なこと。いつも身ぎれいにいる心算は、いつも整理整頓して、自分の身に置くものとそうでないものをきちんと選ぶことにあるのだから。

とはいえ、波動というバイブレーションにそんな選択権があるのかというと、結論から言うとあるのではないかと思う。波動のトーンを揃えないこと(なんだか昔言葉を教えていたことに通じる)で、そのトーンにはまらないでいる。

実はそれを言葉にしてそぎ落とすパワーがあるのが六根清浄の大祓だと感じている。
具体的な文言を読んでもらえれば、私がお伝えしたかったことの意味を感じとってもらえるのではないかと思う。

事実、六根清浄の大祓を読むと体の表面にバリアのようなものが作られるように感じるのが私には心地よい。何を見、聞き、触れ、感じようともそれは私を絶対的に侵すことはないのだという安心感をこの大祓を奏上することから得られるのだ。

この感覚、共有できるなら嬉しいなと思います。
今回お伝えしたのは、大祓の前半の部分。後半はまた違う意味で素晴らしいエネルギーをもたらしてくれる言葉が詰まっています。その話はまた今度。

六根清浄の大祓

あまてらしますすめおおがみののたまわく
天照皇太神の宣はく
ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり
人は則ち天下の神物なり
すべからくしづまることをつかさどる こころは すなわち かみと かみとの もとのあるじたり
須らく掌る静謐心は則神明の本主たり
わがたましいをいたましることなかれ このゆえに
心神を傷ましむること莫れ 是の故に
めにもろもろの ふじょうをみて こころにもろもろの ふじょうをみず
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
こころにもろもろのふじょうをおもひて こころにもろもろのふじょうをおもはず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
このときに きよく いさぎよき ことあり
此の時に清く潔き偈あり
もろもろののりは かげとかたちのごとし きよくきよければ
諸の法は影と像の如し 清く潔ければ
かりにもけがるることなし ことをとらば うべからず
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわち
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は則ち
ろくこんしょうじょうなり
六根清浄なり
ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり
ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに
万物の霊と同体なるが故に
なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし
為す所の願いとして成就せずといふことなし
むじょうれいほう しんどうかじ
無上霊宝 神道加持

✴︎ここではろくこんしょうじょうとなっていますが、私は普段ロッコンと発音しています。

 

言霊の力

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年末から年が変わる頃にかけて、言霊の力を大切な人たちから味あわせてもらった。

「言霊 ことだま」をウィキで検索すると、
声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。

とある。こういった価値観が古来から日本人的な有り様としてDNAに組み込まれていた事を示すような神話や神道の考え方は今もって数多く散見される。信仰や日本的なものへの愛着に関わらず、はやりの「思考は現実化する」事や「引き寄せの法則」なども日本人のこういった精神性にフィットする説明なのだろうと思う。

私も言葉にまつわる仕事を長くしている事もあり、そういった事例を自分だけでなく周りも含めて見てきた事から、「神が宿る言葉」という事について考察を深めてきた。

読経や大祓を奏上するときに降りてくる言葉のパワーは呪力に近いものであり、それは言語学者金田一京助が『言霊をめぐりて』という論文で言霊観を三段に分類し、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」「祖先伝来の一語一語に宿ると考えられた言霊」とし、それぞれ「言語活動の神霊観」「言語表現の神霊観」「言語機構の神霊観」ということに相応しいと記している。(前述wiki参照)という分類に照らすと、「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」に当たるものなのだろうと思う。

般若心経であっても、パーリ語の経典であっても、また祝詞であっても、その根源にあるものは日常からかけ離れた「聖」なるものに人間が奏上するという行為を通して「自ら」触れる、味わうという体験であり、それを完全なものとするために日本の神道などでは誤読を厳しく戒めている。

今回私が体験したのは、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」というジャンルに入ると思う。

私は意識的にそういう言霊を大切なとき、大切な人に届けるようにしている。もちろんそれがエネルギーとして通じる相手とそうでない相手がいるのは波動だとか色々なものに原因があるのだろうと思う。

とはいえ、私はその言霊を送るとき、「言霊」が相手にきちんと届き、その言霊によって発せられるエネルギーが良い波動を相手の中で発し続ける事だけを願う。それが「言った事そのまますなわち実現する」という事なのだと思う。

大切な人たちによって私に届けられた言霊は、その場の空気が一変するような、今時の言葉?でいうと私にとっては「爆弾発言」だったし、その届けられた言葉のエネルギーの大きさにぐっと自分の足に力を込めて受け止めるようなものだった。

私は、自分に向けられた良いエネルギーをまっすぐ素直に受け止める事が苦手で、それは私の根本的な性質でもある。私が大切な人に届けるような「言霊」のエネルギーを今回は自分の大切な人から届けられ、それをわりときちんと受け止められたのではないか、と思う。

私は周りに何かを求める事は極力最小限でいられたらと思っている。それは大切な人であってもそうでなくてもそう。そうする事で全てが「有り難い」ことになるし、相手から自発的に与えられることに感謝できる自分がいるから。

そんな風に毎日を過ごしている私に、相手からの「言霊」という形での相手の中で蓄積された自分への思いを感じたとき、場の気が一変するのを感じた。

私を取り巻く気が一瞬にして、深遠な愛情を含んだ、明るい未来を包含した波動に変わったのだ。

それは私の中で、まったく新たな経験として「世界が変わる」ことを予見させ、今までの道のりが間違っていなかったことを神意として感じるような出来事だった。そうやって私の2015年が幕を閉じ、2016年が美しいスタートを切り始めたと感じている。

 

新年のご挨拶

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もっとブログをたくさん書けたらと思うのですが、気づきが深く言葉になるのに時間がかかっているような気がしています。

皆さんにとってこの一年はどのような年だったでしょう。

私にとっては幸せだけれど、数年で稀に見る移動の少ない一年でもありました。

フットワーク軽く生きてきた私にとって、想像以上の大変さがありましたが、そんな毎日の暮らしの中で、たくさんのことにも気がつけた一年だったようにもおもいます。

今まで少なくない年数を生きてきて、今年初めて鏡に映る、写真に写る自分の顔をよしと思えるようになってきました。

公私にわたり、ぶれる事なく自分のありうべき「美」に忠実でいる選択をしてこられたからかもしれません。そういう意味で、今までと違う強さや許容するという事を身につけてこられたような気がします。

絶対的な絶望とともに生きる事からようやくきちんと抜け出した、という方が正しいのかもしれません。

今までのようにいつも身を浮かして、いつでも所在なくいた私がでっぷりと居座る事はできませんが、もう少しエレガントにその場にいられるようになったと言っても良いのかもしれません。

そういう安心感が無意識にまで浸透し、何かあっても悠然といられるように少しずつ自分を変えつつあります。

いろいろな推論が確信になる過程の中で、たくさん語り合い、気づきを共有しあい、未来や世界を見通しながら思索を深めてもらえる相手がいてこその変化だとも思います。

宇宙や世界、そして私たち人間の全てを織り成す原則への深い思索と理解がこの一年の私を美しく磨き上げてくれたのだと思う一方、パートナーに尽くすという具体的な行為を通して、その行為から生まれる全ての結果、それを認識し、感謝してくれる事によって、自らが理解され、認められていると感じる事も自分を豊かに美しくしてくれたと思っています。

私自身が良い波動の発信源なのですから、洗練された美しい調べとしての言葉や行動、身近にいる人から遠く離れたところにまでその美しく力のあるエネルギーが届くように、2016年も自らを浄化し、磨き上げながら存在していこうと思います。

 

大切な人をどう呼んでいますか

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日に日にこの常夏の国も風が涼しくて、気持ち過ごしやすい時間が増えてきました。

この、アップデートの少ないブログですが、名前に関するエントリーは継続的にサーチをされて、訪問されています。

「呼び方」については言霊的な要素と関係性や尊敬を波動として伝える要素があると考えています。

付き合い始めて間もない頃、誰も呼んだことがない呼び方で彼を呼びたい、と思ったことがあります。それは今思えば執著のようなものだったのかもしれません。だけれど、それが全くフィットしない、彼にとってはなく、自分が相手を呼ぶに「ふさわしい」かどうかというのがあると感じました。

「呼び捨て」をすることは親しさの象徴ですし、私も憧れましたが、それもできない。私の相手に対する尊敬がそこに含まれないのです。愛情は含まれても尊敬が含まれない、それが私にとってフィットしなかったと言えるのかもしれません。

フィットしないことはやらない、「敬語でなくてもいいんだよ」と言われてもやはりそれも全部は外れない。その理由はシンプルで、相手に対して距離があるのではなく、愛おしく、尊敬している相手に対する自然な対応なのです。それを崩して近しくしてもそれは「無理」を自分にとって通すだけにしかならないのだと。

あらゆるパートナーがそうであるかというとそうではないかもしれません。自らの資質、相手の資質、年齢、立場、多岐にわたる要素が関係して、何が二人の関係で最善か、が導かれているはずです。

名前で呼ぶということが、言霊に届き、その良質な波動が周囲を満たすことの美しさについては触れたと思いますが、ただ名前で呼ぶことが大事なのではなく、そこに込められる「いとしさ」や「敬意」が自分の魂や相手に対する思いにフィットしているかどうかをよく見極めるべきだ、と今回はお伝えしたく思います。

この国では、ニックネームでも呼ばれない、ただ「マダム」と呼ばれることによってそういったプライベートな関わりから一線を画すことで立ち入りすぎない立場を保っています。(私は逆に彼らの名前をきちんと覚えて、声をかけることで、彼らとの関係を良くしています)名前という言霊「コード」の使い方の一つです。

自分の両親を名前で呼ぶ人がいらっしゃるとも聞きますが、こういう考え方と感覚で生きている私には理解し難い部分です。ですが、いろいろな魂の関係があるので、今(現世)は親子でも昔(前世)は共に戦う同士だったから、それがフィットして双方が最善だとするならそれも良いのかもしれません。

自らの内面を表すのがファッションだと考えたときに「色」にこだわるのと同じ様な気がします。

以前の私は自らの内面を隠す様に、ひたすら「黒」を着ていました。「マダム」と呼ばれる様にするのと同じことです。一方、「白」を着た自分は自身を明らかにしている様な感覚がありました。どちらが今フィットしているか、心地よいのかは自分の中ですぐわかります。誰かを呼ぶとき、その呼び方を通じて発せられることは、相手に対する愛情、リスペクト、自らの人間性を周りの人に向けて発信しているのですから、お洋服と変わらない発信力があるのだということです。

そういう心算で、周りの一人一人にフィットした形でエレガントに接していけたらと、年の瀬に改めて感じています。

名前というのはやはりマジカルなものです。だから名前をコロコロ変えるのはどうかしらと思うし、おざなりにするのも良くない。なんにせよ、名前をつけるときはその名前をつけられるものへの未来と思いをたくさん感じて渾身のエネルギーを込められることが必須で、それができないということはときが満ちていないということなのかもしれないとも言えます。

生まれながらについている名前はそうそう変えられませんから、大事に吟味して、その名前に込められたものを精一杯体現できる様な働きをと思います。そのために外部から与えられる無形の力が「名前を呼ぶ」ということなのではないかと思っています。