日常という作り込みの場。

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私も日々実践していて実感していることを、私の書くものを大事によんでくださっているある人に向けて書こうと思う。

とはいえ、このことは以前から書きたかったことでもある。

私が言葉を教えていた頃、いろいろな事情で離れざるを得ないと報告をくれる人が何人もいた。その人たちに何をどう伝えればよいのかもわからないで、またあえることをと願う言葉しか贈れないでいた。

例えば言葉、例えば身体を鍛えると言うこと。これらは机の前に座って本を開く、またはジムに行くことによてのみ重ねられるのではないということなのだ。

一つは習慣化。
私がこの国の言葉がうまく聞こえるのであればそれはまさしく、習慣化の賜物だ。
音のトーンをそろえるということに注意して発音を続ける。末子音の微妙な音の違いを誰かに始動しているときにやるように明確にクリアにする。

身体を鍛えるのに腹筋を100回やる。スクワットを100回やる。

身体は単純で2週間続ければ、苦もなく毎日できるようになる。だけれどそれを「いかにどこに組み込むか」が継続のみそであり、鍛錬でもある。

決めたことを行う、ということが意外と簡単でないことは誰だって知っている。だけれどやりやすい環境を設定してやるかどうかは自分次第なのである。自分の毎日の生活やパターンを知り、自分の性格をよく見抜けばいい。

学習というのは試験に受かるものでもなく、「止むに止まれぬ気持ち」で何かを学び、それができるようになりたいのであれば「諦める」とか「休む」という概念はないのではないのではないかと思う。

そこにあるのは、その気持ちがどれほどのものかを試されるということと、それ以外のプライオリティーが高いものに対してのエクスキューズが必要かどうなのかに尽きる。

例えばスクワット100回が達成したい何かにどれほど影響を与えるのだろう。話したい言葉でおはよう、こんにちは、今日は何月何日です、今何時何分ですと正しく発音を心がけたりして音読することがどれほど成功の可否を決めるのか。

テキストが開けないならば、記憶を辿ればいい。今まで身につけたものをさらによくしていくことだって立派な学習なのだから。トイレやお風呂、歩きながら。私はそんな風にいろんなものを身につけていった。

日常に組み込めるということはそれだけ自分と切っても切れないものであり、自分が目指すに欠かせないものなのである。なぜならそこには意思以外の何もいらないから。

単純な反復練習や暗記こそが脳を鍛え、自信を与え、判断の根拠をくれる礎になるということは、それを楽しんでやったものではなくとも万人に与えられる甘いご褒美である。

実践しないと見えない境地だけれど、実践することで必ずいける境地でもある。

私がこの国の言葉を教えることに絶望する時、その多くはエクスキューズにもならないエクスキューズを本人の口から聞かされることだ。はじめてあったときに嬉々としながら必要性を語った同じ口が、できない理由を延々と語る。

日常化は自分の覚悟と向き合うこと、必要性と向き合うことでもある。

教える者は強制はしない。
方法を教え、本人の行動を見守るしかない。
人生はその人のもの。
達成するかどうかは本人次第。エクスキューズに埋没するもしないも本人次第。
止むに止まれぬ思いを自分の中に見いだすかどうかも。

たったこれだけのことをいいながら指導をすることすら「スパルタ」で厳しいとなる世の中はどれだけ甘いのだろうと思うこともあるけれど。

私はそんな風に自分を見いだしながら、自分を高めることに何の迷いもない。
人生は有限なのだから。
言い換えれば、どれだけなりたい自分になる、ということに執着できるのかということなのかもしれない。
もしそれがあるのであれば。

朝の情景

2013-11-25 17.52.42

鶏がきんと高い音でコケコッコーッと鳴き出す。うちには闘鶏が何羽もいたから、それが明け方まだ暗いうちから鳴き出す。
まだくらい窓の向こうからは、2キロほど先にあるお寺の読経がスピーカーから流されているのが聞こえてくる。

隣の部屋から『ハァー』というため息とも痛みを我慢しているとも取れない母の声が聞こえると、階下におりていく音がする。

がらがらと店のシャッターがあげられる。

ウォーイ、という誰かを呼ぶ声が聞こえ出すと、もう外はだいぶ明るくなり始めている。
ピンク色の蚊帳の上にはチンチョ(ヤモリ)の糞がたくさん今日も乗っかっている。それをベッドの上に落とさないように蚊帳を外して身繕いをして階下におりる。

二階建ての二階はチーク材だけれど、ほうきで掃いていると床の隙間から光だけでなく、階下に置かれている商品まで見える。最初はどうしたものかと思ったけれど、少し経てば何とも思わず、そのまま掃いてベランダから階下に落とす。

ベランダに立つとまだ涼しさが感じられ、家の前の通りを知り合いが通りがかる。『ウォーイ』と声がするので、そちらに目をやってにやりと笑うと、眉とあごだけをきゅっとあげて、応答する。

市場に買い出しに出る日には、山ほどの荷物が朝から届けられる。母がぐちゃぐちゃになっているバーツ紙幣を無造作につかんで、ざるにひもをつけて引き上げるだけの簡易式レジにお金を戻す。

そのごたごたにまぎれて、奥の部屋からばあさんが出て来てラオカオという焼酎のようなものの量り売りのふたのあいたのから一杯くすねている。

運転手で一緒に出かけるのクー(叔父)が私を見つけるなり、満面の笑顔で『ご飯食べたか?』とたずねる。
彼はいつだって私にやさしくて、タイ語でいつも会話しているのに、ご飯を食べたかと聞く時はスプーンで何かを書き込むようなジェスチャーをする。

山積みにされた商品をストックしたり並べたりする。
子供たちは早速お菓子の袋をあけて食べだしたりする。店をやっている子供の特権。

10時頃になると、氷屋がくる。何でもスローなこの国で、彼らの仕事はいつも迅速だった。
1貫目だと軽すぎるし、正確に何キロだったかわからないけれど、青年が肩に担いで小走りで大きな氷の固まりを店の前にどさりと置いて、走って車に戻る。

私が最初にできるようになった店の手伝いはこれを10等分にしてアルミの長持ちに入れることだった。さびた大きな糸鋸のようなものでぎりぎりとやる。だいたい割れそうなところまでいくと、近くにある木槌とこれまたさびきったナイフを差し込んでかんかんと叩いて割る。最初はずいぶん手こずった。ゆっくりしているとこの国の温度でどんどん溶ける。

そうやって私がぎりぎりと割った氷は店の脇でお酒を飲む近所の人たちに出されたり、さらに細かく砕かれて袋に入れられて、なみなみと炭酸飲料を注いでそのビニール袋の端にくるくると輪ゴムをつけてストローを差し込み、5バーツだった。

ここまで終わると、朝一段落したな、と思うのだった。

meaw な日常

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ここでの暮らしでの、何でもない日常。

その日常を切り取って記録しておきたい。そんな気持ちになりました。

みあ、というのはこの国でのニックネームです。
ご挨拶代わりにこの名前がついたきっかけをお話ししようと思います。

この国の言葉で、みあ、みあおとは猫、猫の鳴き声を指します。

ねこちゃん、と呼ばれているみたいな感じです。

性格や振る舞いがが猫っぽいと人にいわれることも多いのですが、みあになったのは別の理由からでした。

ひょんなことで知り合いになったこの国の自分より若い友達。

あれこれあれこれ、わたしにいって来てくれるのですが、何を言われてもピンとこない。
なのでいつも「いや」「いや」って断っていたようなんです。

この国の言葉でマイアオ、というこの単語をあまりにも連発した私。

結構年下だったからいいたい放題、いやだいやだ、っていってたのかも。

そうすると、『ニャーニャー』と猫が鳴いているみたいだなぁ、ねこちゃん♪ってなり…。
猫ちゃん、みあと呼ばれるようになってずいぶんになります。

実はいろんなことに嫌だっていいたくていえなかった、のかもしれないし。

ということで、猫の日常。
情景の備忘録として。