直観に根拠は必要なのか。

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あるとき、何かふと啓示的にアイディアが浮かんだり、「ここにいっちゃだめ」と思ったりした時、何を根拠とすればいいんだろう。

例えば、占星術。例えば例えばエトセトラ。

人間の心はいつだって根拠を求めてしまう。(私だけかもしれませんけれど)

だからずっと長い間「好き」に理由がないことに納得がいかなくて、「ただ好き」と言うことを理解できずにいた。

いつだって何かを描写して把握していたいなんて、考えてみると驕った考えだし、いくら描写して把握したってそれが正しいとも限らないのに。それを根拠だと思った自分は浅はかだというか、それだけ疑り深く成長したのだろうと思う。

例えば占星術を啓示の根拠にしたら、当然その占星術で説かれた内容を検証するのである。もちろんその逆もある。一般的に「今週のあなたの運勢」なんていうのはこの逆のパターンで、占星術こそが啓示であり、その一週間の自らに起こる出来事がその啓示の検証である。

いずれにしても。
人間はその「確証」を得るためにいつも何かを一般化し、抽象化し、そのノウハウを売り物にして来たのだろうと思う。それは失敗したくない、裏切られたくない、損したくない。何でもいいけれど要するに、「スムーズに信じられないから、信じるためにいろんな理由付けが欲しい」のである。

これって考えてみるとものすごくマイナスのベクトルである。

検証しないで何でも信じるのは愚鈍だと思っている私ですら、これくらいは理解できる。(最近理解しつつある。正直に言うと)

それは、ただ犬が自分のしっぽを追い回しつづける行為に限りなく等しいのではないのだろうか。

自らが信じたい出来事が、事実、まさに自身に起こるその一瞬まで「確証」と言うのは真のレベルではあり得ない。

ということは、その「根拠」をいくら検証しようとしたってそれは「未来」を検証することなのだから。時間軸の概念からいくと起こってないものに確証を与えるための検証なんてあり得ない。

最近、身体と魂の関係について再認識をしているところで、身体からの側面から書こうと思っていたことなのだけれど、身体が一番良く知っている、と言うことなのである。

人間の身体はアンテナのようなものなので、いろんな危険、感情、未来、いろんなことを察知できている、と思う。

身体をよく使いこなせる人は精神のバランスがいい人も多い。
「百獣の王と戦う」武井さんと言う人の語る自分の身体を自分がいかに思い通りに動かせないかと言う話は今までの彼に対する認識、身体に対する認識を180度変えるほど身体と意識の関係を明確にしてもらえた。

最近流行っている氷水チャレンジも、彼はさらりとしないと応えていた。

彼は身体と会話して、きちんとアンテナを働かせているんだと納得した。

直観に検証なんて不可能なのだ。だから「その直観を信じる」ということで望むべき未来を引きよせて、事前に危険を察知していけばいい。

私が愚かだったのは、魂も身体も「そうだ」と言っていることに検証したり根拠をほしがっていたことだろうと思う。

それをたった一人で感じていた訳でもないのに。

直観は自分にしか知らされないサインなのに、それを自分が無視してしまったら誰がそれに気付くと言うのだろう。
そうやって、だされているシグナルを無視して何度失敗したかを思い出してみればいいのだ。自分の「頭」がそう言わせているのに、「サイン」だと見間違えることもある。でもそれは経験値によって、または心に正直に見直すことで十分防がれるのだから。

何よりも自分の直感を信じてやることが、何よりも望むべき結果を導く方法なのかもしれないという結論にたどり着いた。

日常という作り込みの場。

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私も日々実践していて実感していることを、私の書くものを大事によんでくださっているある人に向けて書こうと思う。

とはいえ、このことは以前から書きたかったことでもある。

私が言葉を教えていた頃、いろいろな事情で離れざるを得ないと報告をくれる人が何人もいた。その人たちに何をどう伝えればよいのかもわからないで、またあえることをと願う言葉しか贈れないでいた。

例えば言葉、例えば身体を鍛えると言うこと。これらは机の前に座って本を開く、またはジムに行くことによてのみ重ねられるのではないということなのだ。

一つは習慣化。
私がこの国の言葉がうまく聞こえるのであればそれはまさしく、習慣化の賜物だ。
音のトーンをそろえるということに注意して発音を続ける。末子音の微妙な音の違いを誰かに始動しているときにやるように明確にクリアにする。

身体を鍛えるのに腹筋を100回やる。スクワットを100回やる。

身体は単純で2週間続ければ、苦もなく毎日できるようになる。だけれどそれを「いかにどこに組み込むか」が継続のみそであり、鍛錬でもある。

決めたことを行う、ということが意外と簡単でないことは誰だって知っている。だけれどやりやすい環境を設定してやるかどうかは自分次第なのである。自分の毎日の生活やパターンを知り、自分の性格をよく見抜けばいい。

学習というのは試験に受かるものでもなく、「止むに止まれぬ気持ち」で何かを学び、それができるようになりたいのであれば「諦める」とか「休む」という概念はないのではないのではないかと思う。

そこにあるのは、その気持ちがどれほどのものかを試されるということと、それ以外のプライオリティーが高いものに対してのエクスキューズが必要かどうなのかに尽きる。

例えばスクワット100回が達成したい何かにどれほど影響を与えるのだろう。話したい言葉でおはよう、こんにちは、今日は何月何日です、今何時何分ですと正しく発音を心がけたりして音読することがどれほど成功の可否を決めるのか。

テキストが開けないならば、記憶を辿ればいい。今まで身につけたものをさらによくしていくことだって立派な学習なのだから。トイレやお風呂、歩きながら。私はそんな風にいろんなものを身につけていった。

日常に組み込めるということはそれだけ自分と切っても切れないものであり、自分が目指すに欠かせないものなのである。なぜならそこには意思以外の何もいらないから。

単純な反復練習や暗記こそが脳を鍛え、自信を与え、判断の根拠をくれる礎になるということは、それを楽しんでやったものではなくとも万人に与えられる甘いご褒美である。

実践しないと見えない境地だけれど、実践することで必ずいける境地でもある。

私がこの国の言葉を教えることに絶望する時、その多くはエクスキューズにもならないエクスキューズを本人の口から聞かされることだ。はじめてあったときに嬉々としながら必要性を語った同じ口が、できない理由を延々と語る。

日常化は自分の覚悟と向き合うこと、必要性と向き合うことでもある。

教える者は強制はしない。
方法を教え、本人の行動を見守るしかない。
人生はその人のもの。
達成するかどうかは本人次第。エクスキューズに埋没するもしないも本人次第。
止むに止まれぬ思いを自分の中に見いだすかどうかも。

たったこれだけのことをいいながら指導をすることすら「スパルタ」で厳しいとなる世の中はどれだけ甘いのだろうと思うこともあるけれど。

私はそんな風に自分を見いだしながら、自分を高めることに何の迷いもない。
人生は有限なのだから。
言い換えれば、どれだけなりたい自分になる、ということに執着できるのかということなのかもしれない。
もしそれがあるのであれば。

浄化、メンテ、感謝というサイクル。

心身をきれいにする方法ってなんだろうと思う。

単純に私はシャワーやお風呂に何度も入ることだと思う。
お塩で体中を洗い流せばなおいい。

何度も水を浴びることでの浄化作用って実はバカにならないと思っている。
外の社会で得たもの、自分の中に芽生えたもの、見聞きしたもの、あらゆるものを落とすつもりで洗い流す。

だから私は一日に何度も浴びる。
浄化というのは告解、許しを請うという行為にも似ている。

清浄な自分でいたいという願いもこもっているものでもある。
清浄な自分というのはいろんな意識に偏らない、曇らない眼でみたものを元に思考し、決断できる自分ということ。

自分の身体を愛しましょうとか、感謝しましょうっていうのもよく最近は耳にする。
自分の臓器に毎日ありがとうって臓器にサマ付けしてFacebookに載せられている方もいる。

私にとって、感謝とか愛っていうのはメンテナンスするということとイコール。
だって大事にしてるから、長持ちさせたいし、ありがとうって思っているから、手をかけてあげたい。
すごく自然に生まれる気持ち。

メンテナンスしないってことは愛がないってこと。身体を愛するとか感謝するっていうのは私にいわせるとクリームが一瓶あればいい。全身をあちこちのばしたり、ねじったりしながら、くまなく塗っていると、何が悪いのかわかる気がする。ありがとうございますと言いながら、塗っていけばいい。メンテナンスと保湿で一石二鳥でもある。

これが習慣化していくっていくこういうことなんだろうと思う。
毎日の中に当たり前に取り込まれていくもの。
その結果自らを強く高めていくもの。
だけれど、継続には意思や目的が伴うもの。
目的や意志がないと継続させられないから、これにはある程度の訓練というか積み重ねを要する。

身体との対話、っていえばいいのだろうか。メンテナンスというのはくまなくみる、という役割も備えているから、そう言う気持ちで楽しめるなら、補うべきものが何かは自然とわかっていくはずだ。自分の身体だから。

体内に入れるものの選択もものすごく大切だとは思うけれども、こと「浄化」という観点と「メンテナンス」をサイクルの中に入れることが結果的に心身の安定だったり、いろんなものから自分を守るためには必要なことなのではないかとも思っている。

それは自分の中に聖なる領域を常に生み出す源泉のような行為でもある。

このように浄化された自分が、カミサマノイウトオリな働きができるようにという祈りをこめて。

一時、滝行にひどく憧れて「滝に打たれたーい」と言っていたこともあるけれど、滝に打たれにいくよりも頻繁に浄化されて鍛えられて、コンビニエンスだけれど悪くないな、と思う。

小さい頃から子供は抱いて育てた方がいいっていうし、スキンシップはすごく大事だと言う意見とその反対の意見があるけれど、私は前者がいいと思う。人の暖かみだとかふれられるという喜びは性別や年齢に関係なく人を癒し、安らかな気分にする。だから女の人はエステにいくし、男の人はお姉さんに触ってもらいにいく。笑

愛する身近な人でなくてもいいぐらいなら、自分で自分にスキンシップしてやれば、他人が満たしてくれるよりは少なくても緩まっていくものがあるだろう。そう言うものが必要だってことを自分で実感するのにこのサイクルは悪くないと思う。

自分自身を大切にする仕方、大切な人を大切にする仕方。
言葉ではなく、「何をするか」って言う行動によるんだって言う気持ちは日に日に強まっていく。
それは自分自身に対してでも同じこと。
誠実に、態度で示すこと。自分自身も大切な人もきちんと思いを理解して応えてくれる。

イチローがすごいっていうけれど、それはみんなこういうことが実行できないからだと思う。
彼はその習慣化を幼い頃にお父さんときちんと積み上げてきた。
だから謙虚だし、行き着く先も知っている。
大切なことはいつだってシンプルだ。

ネット速度とリア充

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インターネットの速度が一番速いのは香港・韓国でその次が日本だという記事を見た。
私が今いるこの国も東南アジアの中では早い方だろう。
ところがこのリストにEU諸国が意外と入っていないのが驚きだった。(ベルギースイス辺りがランクインしていたと記憶)

イタリアだとかフランスだとかだけでなく、アメリカも10位以下でランク外。
その理由はなんなんだろうと考える。(もちろん、国土の広さとかね、いろいろあると思います)

「早い」=「よいこと」だという価値観に私たちはずっと浸されてきている。
だからどんどんと早いサービスに乗り換え、対応機種に買い替える。

どうしてそんなにずっとFacebookやTwitterをみているんだろう。
LINEが既読になっていたらどうして返事しないで放っておくと、「怒っている」と思われないといけないのだろう。

社会がオンラインとオフラインの境をなくしてしまっているからなんだろうと思う。
誰かとご飯食べている写真をあげてないと「リア充」じゃない感じに見えるからなのかもしれない。

既読になってすぐ返事しないのを怒っているととらえるのは、そんな状況大人ならよくあるっていう想像力が欠如しているってことなのだろう。

でも、誰かとご飯を食べている写真をあげることが果たして本当にリアルにオフラインが充実しているってことなのか。
私は大切な人と楽しいご飯を食べていたら、幸せな時間を過ごしていたら、FacebookにもTwitterにもあげない。
それよりも目の前にいる人と全力でいい時間を過ごしたいと思うから。

あるお店が「うちにWi-Fiがないのはいい食事といいおしゃべりの時間を味わってほしいから」って書いていたけれど、そういうこと。
目の前にいる人、大切にするべき人を大切にするっていうことってそういうことなんじゃないかと思う。
そういう時間をどれくらい持てているのかっていうことが、プレシャスな人生にとって必要で、現実世界が充実して満ち足りている(リア充)人生なのじゃないかなぁって思う。

だからもしかすると、フランスとかイタリアだとか、美しい景色が身の回りにあって、夕方集まってワイン飲んでおしゃべりしている(イメージ)のあるところではインターネット速度なんて生活のプライオリティーの上位には入らないのかもしれない。

ビジネスの世界でも趣味やアートの世界でも「インプットとアウトプット」ということがよくいわれる。
アウトプット過多になるということは、インプットが追いつかない状況を得てして生み出す。

ビジネスでもアートでも「止むに止まれぬ思い」っていうのは、オンラインではなく、自らの体験や思索や感情から発露するもので、それを何らかの方法でだしたい、と思うのが本来のアウトプットであるべきだ、と思っている。ということは、もっと感じないといけない、っていうこと。

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最近、最も苦手だと思っていた絵をはじめた。
これは「はじめよう」と決めた訳でもなんでもなく、自分の溢れる何かを言葉以外のもので表現したいという「止むに止まれぬ思い」がある日私にペンを持たせるようになった。

モノの見方や感じ方が変わったことをリアルに感じながら、描く対象を見つめる、空を眺める。そうやって自分の変化を感じることこそが生きているという実感にもつながる。

画面の前に座っているよりも、ヨガマットをひいて自分の身体と対話する楽しみ。
筋肉がついていく楽しみ、身体がのばされていくことで癒されていくもの。
これもいつの間にか欠かせない習慣となっていくと何より満ち足りた時間で、やめられなくなっていく。
誰に指示される訳でも、気を使う訳でもなく、ただ自分の身体を追い込んだり対話したりする時間は当たり前なんだけれど贅沢だと感じる。

誰かの書いた文章に「いいね」を押して得られるものとは全くレベルの違う充足感。
言葉にならないものの価値や意味を改めて大事にできる瞬間。

もちろん、FacebookもTwitterも交流の場や気付きを得られる場として本当に楽しいものなのだけれど。
どんどん、iPhoneをしっかり握りしめていた時間が遠のいていく。
何かあるとのぞいていたSNSをだんだんとみなくなる。
ガジェット大好きだった自分はもうここにはいない。

できることならパソコンもiPhoneも全部捨てて生きたいよね、なんていうはなしをしていることがある。
全部捨てると仕事ができないので(苦笑)、たまにMacBookを開けるぐらいでいい人生を送れるようになったらいいな。

品格っていうのは自分に合う香水みたいなもの。

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数年前に「女性の品格」という書籍がずいぶん話題になっていた気がする。確か著者は元官僚の女子大学の総長だったと記憶している。

書籍自体に目を通していないので、何ともいえないけれどわりとアンチな意見が多かったような印象がある。「旧態然としている」とか「見下している」と言ったような「何を今更」というような意見が目立った気がする。

今の日本政府は女性をもっと働かせようっていう政策なので、NHKなんかでもふありとそういうのを感じさせる「職業女性」な連続テレビドラマをやっているのだろうなぁと思う。「女性がお家で家事だけをしている」ということが当たり前な社会において、現状に合わせるという意味も含めて、ドラスティックに社会の前提を変えようとしている意図もないとはいえない。

女性が社会に進出するということは、今私がいる国のように、工事や建設現場でも女性が働くという意味ではないように思う。同時に日本よりもずっと多くの女性のマネージングクラスも女性の官僚もいる。そういうことと「品格」っていうのは全く別次元の問題なんだよねって思う。

もちろんこれは女性に限ったことではなく、男性にもいえることで。
私も何人かの人と一緒にお仕事をしてきた経験はあるが男女の違いよりも「経緯と結果」でいつも判断する。
いろいろ話したあとはずっとみている。相手が何かを報告や相談してくるまで黙っている。
社会的な能力というのは性差よりも経験値や個人差や周りの環境で変わるものだからこそ、本人のやる気が見える「行動と結果」を見守るのが一番最善なのだろうと思っている。(まぁ、こういって手の内を相手に明かしても人間ってだらけるんですよ。面白いほどにね)

「品格」ってなんだろうかと思ったときに、言葉の意味から考えると「物である品」を格付けすることによって生まれた地位ということになる。

人間に当てはめると、人間を格付けするものこそが品格なのである。
こういう話をするとたいていは貧富や出自がその話題の骨格となるし、そういう意味での品格という「家柄」みたいな連綿と続く中で培われて行く英才教育的「エリート」の持つ「品格」とどうしても混同してしまうのだろうと思う。

私みたいな出自のある部分があやふやな人間はそういう話になると語るべきものがなくなってしまうけれども、あらゆることが「品なく」あってもそれはそれとして許される社会にいて自分が保つべきこととして守っていることはいくつかある気がする。

言葉を教えることが日常だったとき、「この本にはこう書いてある、友人には丁寧すぎると笑われた」とクレームを受けることがあった。

私は自分が母国語ではない言葉を学ぶときに、そのニュアンスや距離感がわからなくて、通訳業務などに自信をもてない時期があった。
それから「誰と話しても恥ずかしくない言葉遣い」を教えることに注力するようになったのは自然な流れなのかもしれない。言葉というのはその人の人格を表すものだから。

「ネイティブ並みにはなせるようになってから、彼らが話すようなこなれた言い回しは覚えてくださいな」と生徒さんには言ったものである。自分が大変な思いをしたことをせめて自分の生徒さんには体験してほしくないという思いからであるけれど、私のように王室関係から農家のおじさん達まで話すような人はあまりいないだろうから、それが正しかったのかどうかわからない。だけれど、日本人として恥ずかしくない言葉遣いと振る舞いをしてほしい、そういう思いはいまでもある。

品格っていうのは自分が恥ずかしくない言動、動作、立ち振る舞い、相手への思いやりのことを言うんだろうと思う。客観的にその自分をみたときに「何かこの人痛いよね・・・」って思わない自分。そう思うだけで、言葉遣いだけではなく座り方だとか、すごく些細なことまで整ってくるのだと思う。

それは家の外だけではなく、お家で一人くつろいでいる時だって同じだと思う。食べっぱなしのお皿が流しにおきっぱなしだったり、脱いだものが散らかっていたり。疲れて戻ってその時は許すとしてもちゃんとあとでリカバーする自分がいることが品格っていうか、自分の美しさを形成するんじゃないかなって思う。

散らかした部屋の中で暮らす私と、ある程度整った部屋で暮らす私。自分が主人公のドラマをみているつもりでいればいいのだと思う。(現に私はついつい、ドラマで女性出演者のお洋服の着こなし、話し方や歩き方に指使い、無意識にチェックしているみたいです)

品格という言葉が格付けを表すというのは基準があるということに他ならない。
それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。もしかすると。

自分が自分を「これでよし」としている格付けが他人にとって結果その相手の格付けでどのくらいに位置しているのかってことなのだと思う。

着物を着こなし、所作が美しくても話す言葉の内容が下品きわまりない人だっているのだから、そういう人は私にとっては「品がある」人だとは残念ながらいうことができない。そういうことなんだろうと思う。シンプルに。

いきなりそういうところに引っ張りだされたときに、「品格」を急にあげようとしてもあげられないから、みんな「ソンナノイラナイ」っていっちゃうのだと思う。すべては日常の積み重ねなのだから。日々心がけるからこそ、美しく、醸して行くのだ。さりげなくその人に一番似合う香水のように。

美しくあるってそういうことなんだろうと思う。

ただ、これだけでは十分ではなくて半分ぐらいのことだと思う。それ以上に訓練とか想像力がいるのが「相手への思いやり」っていうことで、それが実は品格っていわれるものの根幹をしめているのだと思う。いろいろなお作法だってそこが原点。相手を不快にさせない、快適に、さりげなく、感謝の気持ちを持ってっていうこと。

これが本当に深いよねって思う。
こんな暑い国でそんなこといくら話しても理解してもらえないでしょうけれど。
私の思う、相手に対する思いやりを軸にした品格についてはまたの機会に。

細胞の生まれ変わりという時間経過。

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人間の細胞は骨まで含めると7年ですべてが新しくなるのだと言う。
そう考えてみると、わたしが結婚生活を終わらせた時と今のわたしでは全く違う「わたし」と言えるのかとふと思った。

彼はわたしにとって結婚生活を終えたあとの方がもしかすると、よい友人として励まし続けてくれたのではないかなぁと思う。

それはもしかすると失敗に終わった時間の反省かもしれないけれど、わたしのように人との縁が薄い人間にとっては結果的に家族より身近な人だったように思う。

お互いがどうやっても元に戻れないことをよく知っているけれど、自分のできる中で何かをと思っているのはなんだか不思議なかんじだった。家族の誰よりも自分を知っていた人だから、法的な縛りが解けたとしてもなんだか甘えていたのかもしれない。

そんな関係を理解できないという人は多かったし、また一緒になるのではないか、なればいいじゃないかとわたしに言う人も少なくなかった。

だけれど、60兆もある自分の細胞が、段階的に少しずつ新しいものに変わっていくように、自分自身の意識やいろんなものが変化していくことを感じていたけれど、それは彼も同じだったのだと久しぶりに文字で会話する文面からそれが伝わってくる。

人生がドラスティックな変化ばかりで、そんなのが嫌いで、いやでいやで仕方なかった自分が選んだ相手だったからこそ、こんな風にゆっくりと時間が過ぎたのかもしれないと今は思う。

きちんと家族だったときにはできなかったことも言えなかったこともお互いに伝えることができて、なんとなく心配で後ろばかり振り返っていたような気がするけれどそろそろ、本当に「じゃぁね」と言えるんじゃないかなぁという気がしたのは、今までみたことのない彼が垣間見えたからだと思う。

きっと彼もそうだったのかもと今は思う。強がって無理強いするわたしが心配だったから、噛み付かれない程度に離れた場所から見守っていたけれど、もうその役割を終えてもいい、そう思っていることが伝わってきた。

あの頃の彼もわたしももういないのだなぁ、と「新しく生まれ変わる」という彼の言葉を聞きながら感慨深かった。

刹那と永劫のはざまにあるもの

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ダイエットでも何でも継続。
目指してた体重になってから、維持することが大切。
大学入試でも入ってからが本番
目標に達すること、欲しいものを得たらそれで終わりなのではない。
ゴールはどこなのかってこと。

本当のゴールはシンプルに、死ぬ時であることは間違いがない。

だからこそ、自分が欲しいものが手に入ったときのことを覚えていたい。
どんな気持ちだったかを忘れないでいること、手に入っている「今のわたし」がいつの間にか当然にならないでいることが、とても大切だと思っている。

目的を果たした自分が驕ったり、しないようにいること。

最初からその高さにいたのではなく、一段一段階段を登ってきて、まだ上り続ける意識を忘れないということ。

仏教の教えでは、継続も一刹那の連続ととらえる。その一刹那とは、その次の瞬間に変化してしまうことを覚悟せよ、と彼らは説く。

それが執着をしないということだ、と。
ずっと長い間この考えを正しいと信じて固執していた。

だから、何かあるとすぐ、変化を受け入れて手放さねばと思っていた。

本当にそうなのだろうか。それで未来を信じることってできるのだろうか。
次の一瞬に終わったり変わると覚悟していて未来を描けるのかということである。
わたしにはできなかった。

いつか死に行く、と次の一瞬とでは切羽詰まり方が違うといっていい。

未来を描いて継続することと、ただただ、一瞬の連続として継続することは意味合いが違うのだ。

階段の先に何があるのかを知って登るのと、ただただ階段を上り続けるのが違うのと同じである。

目的に向かうための階段は、その目的や対象に対しての思考がより重ねられ、より理解するということに他ならない。それこそが未来を描き続けるということなのだろうなと思う。

時間はお金で買えない。
上る階段の過程と言える人生そのもので何を自分は選択するのか。
未来が描けるのかどうか、これは実は大きな問題だと未来を見つけてからわかった。それまでのわたしは町中でただ修行だけをしていたのだ、ということがわかったから。

明日は一緒にいられないかもしれない。嫌いになられるかもしれない。そう考える刹那の連続は恐怖や不安しか生まない。

同じ未来を共有したい、同じ目的に向かっていたい、そう思うから信頼も生まれ、大事にしたいという思いも生まれる。
逆に言えば、同じ未来や目的を共有している相手を粗末にしていないか、自らに問うことでもある。

後悔しないように、過程を忘れず、死ぬまで目的に向かって歩むことが継続であり、自分の生を全うすることなのではないかというのが最近の結論である。

刹那と永劫の共存という仏教的な世界観でもあるけれど。コンビニエントにハウツーで人の話を聞いてわかることなどたかがしれている。自らの思考と体験を通して限りない宇宙を感じるために何をするべきかは明確なんだろうとおもう。

声・息・魂

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高校生のときに【声が大きすぎる】と親しい友人に言われて以来、無自覚に声を抑えるようになったような気がする。大きな声の人に元気でない人はいない、という話を聞いたけれどそれは真なりで、そういう風に言った友人は私の過多と言えるほどのパワーが疎ましかったのだろうということがずっとずっと後にわかるのだけれど。それはそのときには与り知らぬことで。

とにかく。声を出す職業なのに声の問題に悩まされてもう10年以上になる。

30代になって入退院を繰り返す原因となった持病が原因だとおもってきた。どんどん話すのがおっくうになり、マイクがないと講義も立ちいかない。本当に目の前にいる人に「聞こえません」といわれる経験を何度となく繰り返していくと、話すのだけではなく、誰かと接することすらいやになってくる。

仕事のクオリティーが保てないので、大きな通訳の仕事は数年前を最後にやっていない。声が通らない通訳なんて仕事にならないのだから。

この国の言葉を教える際にのどの使い様、声の出し方をきっちりと指導できるのになぜか自分の日本語の問題はクリアできない。そんなおかしな状況が何年も何年も続く。かわいい声だと言われるけれど、自分の声は品がないような気がして、全く好きになれなかった。営業トークみたいな声だから。考えてみたら、かなり自分をガードして話してたのだから営業に少し通じるところもあるね。

話すとのどが頻繁に痛むようになったのもこの頃から。喉が腫れる。話したくなくなる。

むりくり話すから、声を出すためにのどがきゅっと締まっているのもわかるようになってきたけれど、何をどうすればいいのかわからなかった。

のどはコミュニケーションを司るチャクラだから、ここが閉まれば当然、コミュニケーションにも難がでる。そんなことはわかっていても、それをどうにかしたいという魂の力強さにかけていたのかもしれない。

瞑想をしたり、体中に気を巡らせても【のど】や【声】の問題と連動させることがなかったのも無意識に避けていたのだろう。それをあることがきっかけでどうにかしよう、と思い出して。

おかしなもので【仕事で使う】という目的での改善は身体がどうやっても反応してくれないのだけれど【息】という生きることと少しずつ連動させていけるようになったところで「声磨き」のセミナーがあるというので参加することにした。

声が出ない原因、身体を共鳴させられていないこと、声という「音」と「呼吸」が連動していないこと。身体に力が入ることで、身体が響かない、声が聞こえづらくなるという話にはなるほどと納得することがあった。

自分の声の力をイヤな形である意味封印されてから、声のパワーを無視してきたように思う。

セミナーの間にふと、ある人のことを思い出した。マリアさんという私が出会ったときにはもう70歳を超えたおばあさまだったけれど、彼女はクリスチャンで日本で最初にオーラソーマをはじめた人。彼女は縁あってこの国にきたことがあって、その昔話を聞くことがきっかけで何度か彼女のセッションも受けたし、自宅にもお邪魔した。

彼女はこの国にきたときに、とある有名な寺のそばでお坊さんたちと知り合いになり一時毎日おそらく時の僧正たちと毎日食事をしたり会話をするのだけれど、それでお経も覚えたのだという。何十年前に覚えた彼女の唱えるお経のパワーといったら。小さなやせたしわくちゃの彼女からは想像もできないような地に響き渡るような魂からの読経だった。小さなお部屋で聞いた彼女の普段の声とはかけ離れた声に圧倒されたのを覚えている。

宗教寺院の多くで祈りの際に線香のような煙の立つものをあげるのはその煙に沿って願いが神に届けられるためだと言う。声だってそうであるはずだ、ということに気がついていく。

声は気であり、気は魂の発露だと言う流れが理解できた私の声は、営業トークのような声ではなくなってきたように思う。ふわりと自分の声を柔らかに身体に響かせられるようになるまであと少し。

力を抜くということ。

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自分を思い通りに動かす、と言うことについて前回はここ最近の気付きを書きながら、切っても切れない要素があるのを思い出したのであわせて書いておこうと思います。

武道を始める前からよく【力を抜きなさい】と言われることがあって。
マッサージに行ったりすると、「どうしてこんなに張ってるの?力はいり過ぎじゃない」とか言われることもよくある。

もともと緊張しやすい性格だからどうしても無意識に身体に力が入ってしまうのだ。

仕事柄、人の出す声を良く聞いているけれど、声だって同じで口の動きを意識すると知らないうちに喉に力が入っていたりする。これだって昨日のテーマである「自分を思い通りに動かす」という作業の一貫ととらえればまた違うアプローチがあるはず。

力が勝手に入るのも自分を思い通りに動かせないことも原因は同じで方向性だけが逆なのだろうと思う。入れようと思っていないところに力が入り、動かそうと思っているところが動かない。

自分の身体すら、ままならないという前提に立てば物事はもっとおおらかにやさしく見ていられるのかもしれない、とも思う。

とはいえ。
できないままでいるなんて許せない(笑)から、当然試行錯誤を繰り返している途中。
「軸をしっかり」というのは「力を抜く」ということと対でアドバイスされる。全部の力を抜いてはただ崩れ落ちてしまうので、軸をしっかり立ててほかの力は抜くということ。

まっすぐ立っていようが座っていようが、打ち合わせしていようが、武道の型をしていようが。軸だけはしっかりと。

身体を動かしているときの力の抜き具合は何とも言えないけれど(まだかなり練習する必要があるかも)、それ以外で力が抜けてきたように思う。

そうすると自然と肚が据わるし、肩こりも改善されている気もしなくもない。何より穏やかになり、思考も広がりやすくなった。こういうことの積み重ねで身体と心や魂が密接に関係していると改めて実感していくことで心身のバランスを取りやすくなる。

自分のあるがままの姿で修行を重ねて、勝負するときにはその一点に力を集中させるためにはいつも力を抜いて身体をしなやかに敏感にしておくことが大切なんだということを身体を動かしていくことで教えられている。

縮んだ筋をのばして、あるべき姿(痛みを感じずにのばせるということ)が力を抜ける状態になる、ということだし、ニュートラルに我が身を置くことだからこそ、心もニュートラルになるんじゃないかなぁと思いながら前屈をしていたりします。

自分を思い通りに動かすことからすべては始まる。

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今年に入って武道を始めた。

はじめたといっても週一回数時間だからたいした練習量でもないのだけれど。
身体を動かすのは嫌いではないけれど、誰かと相対するとか大人数でやることに子供の頃からの嫌な経験があってずいぶん遠ざかっていた。

知らない人と満員電車でもないのにパーソナルスペースの中にいることや手をつかんだりするのがものすごくはじめは違和感だった。

少人数で教えてもらえることもあって、全くのど素人の私でも無理矢理まねごとみたいに先生たちの後を追ってやっている。

覚悟はしていたことだったのだけれど、思った以上にひどくて驚いたのが【身体が思うように動かない】ということだった。見ているものと同じようにする、ということが全くできない。見たものを理解して身体を動かすという機能が死んでるのかと思うぐらい。何度見ても自分の感覚としては、【わからない】というのが一番フィットした表現かもしれない。

何度言われても、向きが違っていたり、左右が逆だったり。トンチンカンなことこの上ない。

いつもなら「恥ずかしいしもう嫌だ」とやめてしまいたくなるのを、もう数ヶ月続いているのは、指導してくださっている先生が良いのと、身体を動かすことが思ったより楽しいから。

そんな中でプラスの発見もあった。
私の通っていた高校は薙刀が強くて、女子は体育の授業で薙刀が必修だった。

その経験のせいなのだろうか、棒を持ってやる立ち会いだけは何となく覚えが良いのである。何十年経っても身体が何かを記憶しているのだろうか、と思ったりもした。

自分が生きていく過程で、気持ちや思考や行動をコントロールすることは一生懸命学んだし、いろんな経験を積んで来たけれど、入れ物である身体を思い通りに動かすということにいかに無自覚だったのだろう。人間としてバランスの良さを追求して来たつもりだったのに、自分の身体すら思うように動かせない。

そんなときに野生動物と戦うシュミレーションをしている?武井さんの「身体を思い通りに動かす」という記事を見かけた。

詳細はリンクをたどって読んでもらえばいいのだけれど、武道でもスポーツでも上達のためには技術よりも「自分の身体を思い通りに動かす」ということが本質で、そこに視点を転換した上で、「最善の型」にキープできる訓練をしているのだ、と彼はいっているのだという理解をして。

その「最善の型」にあるときの筋肉の張り、手の感じ。そんな風に感覚と筋肉をシンクロさせる。

思考やそれに基づいた行動がコントロールできることがよしんば100%できたとしてもそれは自分というポテンシャルのたった半分でしかないということも教えてもらう。

感覚と筋肉がしなやかに連動するために、身体もしなやかでないといけないとも感じる。
何十年も使わずじまいの錆び付いたこの感覚をしなやかに連動させられるようになれば、人生はまたもっと朗らかになっていくんじゃないかしら、そういう感じがものすごくしている。