Déjà vu

3959_05

人生はあんまり楽しんじゃいけないってずーっと心のどこかで思っていて。

もちろん今までの人生にだって嬉しいことも楽しいこともあったはずなんだけれど、人生楽しんではいけないんだからって、そういう部分にだめだししていた気がする。

30代は身体を壊してばっかりだった。それでも働かなくっちゃ、がんばらないとって思っていたから、余計ひどくなっていって。笑

そんな私だけれど、何度か人生で『これから全く違う世界に行くんだ』って感じたことがある。

十代での留学は、不器用すぎる自分が『どうにかまともになりたい』と思って選んだ選択肢だった。留学したら、自分はきちんとした人間になれるぐらいの勢いだった。人付き合いが苦手な私はとにかくここからはなれたかった、というのもあったのかもしれない。

大学に進学するときもそうだった。通るはずのない二次試験の100倍以上の倍率をかいくぐりなぜか通ってしまった。あの時は受験勉強が楽しくて仕方なかったから、浪人するのに何の問題もなく、通っていた予備校の特待生にもなっていた。

父が『お前は頭が悪いからかわいそうで』と決まった東京への進学だったけれど、これもまた『ここにいたくない』という強い思いが働いたのではないか、と思う。

そうやって踏み出した新しい世界に踏み込む前の自分がベッドで布団にくるまって『状況が変わる』というその瞬間を毎日のようにカウントダウンしていたのを生々しい感覚で覚えている。

不安とか喜びとかそういう言葉では表現できない、『別のステージに行く』んだ、という気持ち。もう今までもっていたものを出し切った後なのに、何か充実した感じがする過渡期のような。

その後、同期の7人と初めて降り立ったドンムアン空港はお手拭きに使われるちょっときつめの香水のような香りと、湿度のせいで道路脇の常夜灯の光が幾重にもアーチを作り、歓迎してくれるように感じたものだ。

大学の入学式は桜色のスーツを着て、たった一人で桜が満開になる大学へ向かう坂道を上った。風が強い日で桜吹雪の舞う桜のアーチをくぐり抜け、晴れやかな気持ちで大学の門をくぐった。

あの頃のように身軽ではないし、手軽に環境を変えるためのきっかけもないけれど、その分、『ここにいたくない』から始まる別のステージへの階段を長くのぼって来た気がする。

 

扉にたどり着くのはもうそろそろかもしれない。

 

情景の備忘録

2013-07-29 08.30.09

 

記憶力が良いかどうかはよくわからないけれど、パーソナルな関係はあんまり記憶しないようにわざと脳みそがしている気がする。

だから昔やっていた、役人と犯罪を犯したとされる人の間に立って互いの意思疎通を手伝うという仕事だって、内容は覚えていても容姿やシチュエーションは全く覚えていない。

そのせいか、偶然声をかけられても覚えていないということが多くて困る。

パーソナルな関係でも情景を断片に覚えていても、事細かなどこに行ってだとかあんまり覚えてない。お見送りにいったときに待ち合わせたのがログハウス仕立ての喫茶店だとか、何年かぶりにあった時きていたのが紫色のシャツだとか。

情景の記憶ばかりの積み重ねにその一瞬の感情だけが映像と一緒によみがえる。

 

花輪飾り

4011s

 

私は小さい頃から不器用で。

この国に来たときに、それを何とか克服するきっかけになったのがこの花輪作りかもしてない。

学校で一番怖いと恐れられていたカンチャナー先生が日本でいう家庭科の担当で。まずは日本ではわりと高級だけれど、こちらでは安価に売られているデンファレが目の前にどんと置かれて、『花びらを外して同じ大きさに整えなさい』といわれる。

どうにかこうにか整えると、串焼きに使うような長い針で折り畳んだ花びらを一枚一枚均等に並べていく。均等に並んでないときれいな曲線を描かないので、これが最初は上手く行かない。

なにより、花びらをうまく折り畳むことすらできないのだから困ったもので、『あんたは不器用ね』といわれながらようやく小さな花輪を作ることができた。

こつがわかって来て集中してやれるようになると、無心にこれを作るようになった。
花輪飾りのデザイン本などまで買って、いくつもの花びらや葉を組み合わせた模様のものを作ったりするようになった。

花輪の房に使う花を家の近くで摘んでいったりと、手芸、とは言わないのだろうけれど一時期は楽しんでやったものだ。

忘れられないのは母の日の花輪。この国で母の日の花はジャスミンなので、ジャスミンの花で豪華な花輪を作ってこちらでお世話になっているお家のお母さんにプレゼントをした。

帰国前には、学校の友達のラン農家にデンファレを卸値で売ってもらい(自転車に乗らないほど大量だった)、学校で習った先生全員に花輪を作って送ったのも忘れがたい。

私にこの国の言葉を教えてくれた先生は、私が帰国したあと5年程はすっかり枯れた花輪を自室に飾ってくれていた。

この国では公式の場で感謝や歓迎を表すときには花輪を送る。この国のやり方で不器用な私なりに感謝を表したかったのかもしれない。

 

 

オレンジ色のワンピース

images

 

この国に最初に来た十代の頃、この国はまだまだ今のような豊かさをもった国ではなかった。

この国の家族にお世話になって数週間目のこと。『結婚式に行くわよ』と誘われた。結婚式なんて、日本にいた時だってほとんど出たことがない。何を着ていったらいいんだろう。ものすごく悩んで。

洋服は普段着ばかりをそろえていったのだけれど、一枚だけ『何かあったときに』と普段の私があまり着なかったようなオレンジ色のワンピースをもって来ていた。目の覚めるようなオレンジ色の大きな花柄の模様は、自分にとっては派手だけれど、初めてのこの国でのおめでたい席にふさわしいような気がした。

一緒にいくという、すぐ下の妹にこれを着ていこうと思う、と確認したら、いいんじゃないという。無礼でないならと安心してそれを着ていくことにした。

当日。オレンジ色のワンピース姿の私を皆が『きれい』『似合うね』といってくれて近所のおばさんと妹と結婚式に向かった。

でもなぜか妹は私とはなれて歩いて、一緒に歩いてくれない。近所のおばさんに私を連れてくるようにといって先を歩いていった。おばさんはもうテンションマックスで、楽しみで仕方が無いようだったが、なんだか一抹の不安を感じていた。

この国の地方の結婚披露宴は花嫁の家の前などで舞台などを組んで中華料理のテーブルをたくさん並べて行う。みんな三々五々やって来て好きに食べて騒いでいる。オレンジ色のワンピースの外国人はそれはもう注目の的で。

花婿側の親戚や友人はみんな列をなして初めて身近に見る日本人を一目見て写真を一緒に撮ろうとわれもわれもとやって来た。

この時点で、このワンピースが大失敗だと思ったって、もう遅い。妹はどこにいるかわからず、断るすべも、先に帰る手だても無く、ただそのリクエストに応じるしかなかった。花嫁たちとその友人たちがお互いの腕を組んでぴったりと寄り添いながら私をにらんでいる。

所在ない、というのは本当にこういうことを言うのだろう。
そんな気持ちにこのオレンジ色のワンピースが本当にミスマッチで恨めしいことこの上なかった。何よりも、彼女の晴れの舞台にケチを付けてしまったことが申し訳なかった。

そのあとわかったのは、結婚式は破れていないこぎれいなTシャツにアイロンをあてて、穴のあいていないジーパンで十分だったということ。

オレンジ色のワンピースは、その日以降一度も袖を通すことは無かった。

 

天国からのメッセージ

2012.01.30 Umareyoubi 2gatu
ちょうど去年の今頃書いたお話しです。自分の関係のところでは明らかにしていなかったので。少し編集して載せます。

————————

17年前にパソコンで知り合った知人で、相手のことはあまり知ることもなく、ただ日々の思いなどをやり取りしていたお友達でした。お互い仕事を持ち、充実しているけれどなんとなく満たされないようなことを感じていたのかもしれません。そんな彼女と少しずつ意気投合して、やり取りを続けていました。

とはいえ、すごくちゃんと距離を保った、礼儀正しい、文通のようなやり取り。そんな距離感も併せて二人とも楽しんでいました。

一度だけプレゼントのやり取りをしてその時に 彼女の本名と住んでいる場所を知ったのでしたが、それでも相変わらずメールだけでやり取りを続けていました。

数年が経ち、メールのやり取りは自然消滅してしまっていました。私の環境も彼女の環境もその満たされない何かを求めるように動きだした結果、変化をしたからだったと思います。

改めて彼女のことを思い出すことになったのは2年前のことです。

震災の被害地が彼女の住む町だったのです。
名前もうろ覚えでハンドルネームしか覚えておらず、安否を確かめるにも方法がありませんでした。

それでも時折、彼女は無事なんだろうか、と思う日が続いていました。

今年に入ってもはっきりと覚えていませんが、何度か彼女のことを言っていたそうです。

昨日テレビで 震災特集を見ていました。海に沈んでいた携帯電話に奇跡的に電源が入り、ご両親達に思いが伝わったという内容でした。

彼女のハンドルネームは少し変わった彼女の名前から取られていて、その彼女の名前がテレビから流れた時、あぁ、彼女だ、と。

娘さんとご両親の安否を気遣うメッセージ。あのころはまだ子供さんいなかったよなぁと思いながらテレビを食い入るように見ました。

彼女がなくなっていたことは悲しいことですが、偶然にも彼女の最後を知れたこと、ご家族への思いが携帯を通して伝わったことをとても嬉しく思いました。

くしくも私がこの国に旅立つ数日前にこのニュースが流れたことも、なんだか私にもそれを知らせてくれたような気がしてとてもありがたく思い、冥福を改めて祈りました。

 

赤いノート

2013-01-07 11.02.01

 

今、文字を書いたり読んだりする仕事をしているのは、いろんな要素があるだろうけれど、文字を読んだり書いたりするのが好きだったのは、子供の頃からだった。

叱られるからと布団の中で懐中電灯つけて本を読んでいたというぐらい本が好きだった母の影響かもしれない。

書くのが嫌いじゃないのも小さい時からで、絵よりも文字を書いていたように思う。うまくかけなくて、自分の絵が嫌いだったのをぼんやり覚えている。

何より、小さい頃の記憶が乏しい私の記憶は、10歳ぐらいからはじまる。まさにその始まりはその日記を書いているシーンだ。

赤い小さな手帳。その頃はやっていた鍵付きのものではなかったと思うけれど、当時人気を二分していた猫のキャラクターの方が私は好きだったので、そのイラストがついていた。

自分の気持ちをしっかりまず書いたのをはっきり覚えている。そのあとに、なぜならと続けたことまで。だけど、なぜならの後ろは覚えていない。

夕飯が終わって後片付けを手伝ったあと、机に向かってこのノートに制限無く、自分の思いをつらつら書くのが何より好きだった。嫌だったこと、嬉しかったこと。いろんな思いをノートに綴った。

人に見せるという目的で書かれていないので、文章も今読めば訳が分からなかったろうと思うけれど、いろんな悩みや不満や日々の暮らしで気がついたこと、今思えば誰にもいえなかったことを延々とノートに綴っていた。

白い罫線だけの真っ白なノートほど私にとって心安らぐ理解者であり、友達はいなかったかもしれないと思う。きっと読み返してみると、本当に若い取るに足りない足らない悩みなのかもしれないけれど、その当時はそれが毎日のすべてだったのだから、嬉しいことも悩みもその日記帳を反芻することでおさめていったようなところがある。

その習慣は留学時代も続いていて、留学時代は大学ノーとⅠ5冊ほどになっていたから、よほどストレスがたまっていたのかもしれないと思うかもしれないが、タイ語と日本語が混ざっていたからそれぐらいになっている。

東京の大学に進学するまで、10歳につけ始めた日記すべてもっていたんだから我ながら物持ちがいいなぁと感心するのだけれど、留学するまでのものはすべて処分してしまった。

改めて実家を離れるときに、全部読み返したら満足してしまって、新しい自分に東京でなるのだという気持ちもあって勢いよく捨ててしまった。

10歳から18歳までの子供だった自分から卒業する、そんな気分だったのかもしれない。
確かに、そんな思い切りをもって、東京での暮らしが始まった。

今手元にあるのは留学していた頃のものと、帰国した1年分だろうか。そのあとは書かなくなってしまった。外国に住みながら悩む気持ちがそのままあふれていて、痛々しいような、年相応なような。まじめだったのね、と笑いながら読んでしまう。

もうそろそろ、あの日記帳たちとも別れてもいいのかもしれない。

だからだろうか、何かあるとノートを買いたくなる。新しいノートにこれから始まる様々な未来をを詰め込みたい、と思うのだ。