Up side Down

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数日前に絶望をしっているものが強い、というはなしをしていて。

絶望を知っているということがどう強いのか、というと「くるりと向きを変えられる」ということなのだと、ある人の著作は教えてくれる。

絶望それは「望みを絶たれた状態」。私が幾度となく感じたし、出来ればもう二度と味わいたくことはない感覚だ。

私にはずっと不思議だったことがある。余りに毎日苦しくて仕方がないのに、「前向き」で「明るい」と思ってくれる周りの人がほとんどだったこと。どれだけ「絶望」をしていたとしても、「希望」と「なすべきこと」を捨てなかったこと。

今思えば、どうやってやり過ごして来たのだろうと思うけれど、それはすなわち「絶望」という底辺にいればこそ、私はいつもそこから抜け出すための何らかの「希望」や「なすべきこと」を結果的に無理矢理握っていたのだろうと思う。

その循環が私を今の状態まで引き上げて生きながらえさせてくれたと言ってもいい。

自分のネイチャーとして自分の魂に感謝しているのは、「絶望」の中で「希望」や「なすべきこと」を決して捨てなかったということだ。自分の魂が純粋に美しく、望ましいものを諦めない魂としてこの世に生まれたことに感謝しても仕切れない。

前にもこのブログで紹介したことがある、「パンドラの箱」のエピソードは私の幼少からの気に入りのエピソードだ。パンドラの箱をあけると様々な悪しきものがごっそりと封印を解いて出てくる。

だけれどその悪しきものが飛び立った後、「私を出して」という声がする。
その声の主に名前を聞くと、「私は希望」そう答えた。

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何度も何度も読んだこの物語が、もしかすると私の深層心理から支えてくれていたのかもしれない、と今は感じる。

そしてそれが正しかったということも。

たくさんの絶望を知った後でしか味わえない甘露があるのなら、それを味わってごらん、と、とっておきの器に入れて目の前に置かれている。

絶望のさなかにあった長い時間、こんな時が来ると想像もできなかった。
だけれど、希望を捨てず、なすべきことをしていたおかげで今がある。

こんな風に生きて来られたのは、私の意思というよりむしろ、魂が「止むに止まれず」私を導いた結果なのだろう、と今は確信している。ということは、私はずっと前から「カミサマノイウトオリ」に、それがいかなる道程であったにせよ、魂に導かれるまま歩いて来ただけなのかもしれない。

美しくありたかった。

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業<カルマ>と一言でいっても何をイメージするかは人それぞれかもしれない。

人生で解消しなくてはならない、目の上のたんこぶのような何かみたいなイメージとか。
いつも自分に立ちはだかる障害みたいな。

私は生きることにまつわる全般がずっと苦手で。
苦手なのに、躾けてもらったおかげだったり、業<カルマ>の昇華のために与えられた性質のおかげでぱっと見そんなことわからないかったかもしれない。

生きることに小さい時から執着がなかったし、「生きている私」がどことなく不自然なのに、「情熱的な人」とみられることへの自分の心の奥とのギャップ。それで孤独感が一層深まったかもしれない。社会や人とのずれ、無理解。

それを業<カルマ>と呼ぶのなら、どうにかするために今生があるのだろうと闇雲だけれども歩んでいた道は間違っていなかったのかもしれない。

どれだけ絶望しても、なぜ生きてるんだろうと思っても死ななかった。
どこからそれでも前に進もうという意志が生まれていたのか、正直今でもよくわからない。

ただ、正しく美しくありたかった。
正しさも美しさも人それぞれなことはよくよく知っていた。
それを超えた基準。

あらゆる「ありうべき」を超えたところにある、エクスキューズのいらない、不安のない正しさ、美しさ。形があるのかもどこにあるのかもわからない、正しく純粋で美しいもの。

人生の主要なパーツでわからないことがあった。例えば、何故この国に何年もいるのか。
だけれど、生まれてからずっと、正しく美しいものを探すための旅だったのなら。

その基準を持って何かをなすために、あらゆる縁を最小限にした形で「見つけるまで、生きてみなさい」と放り出されてこの世に生まれて来たのかもしれない。

業<カルマ>がなんだということよりも、自分の中で説明のつかないものに自分にとってはとても納得がいく答えが見つかったこと、「生きててよかった」と言うより「死なずにここまで来られた」という気持ちでいる。

読んでくださっている人には意味がよくわからないかもしれないですが、今生の役割が明確にわかったところの実感を残しておきたくて。

不思議な夢の話。

夢をみた。

日本だと基本的に出家したら死ぬまで僧侶だ。
異性と何してもお酒飲んでもビジネスしてもいいんだから、還俗する必要がない。

この国にある仏教だと世俗と言う一般社会からはなれて世捨て人になる。だからもういられなくなったら、黄衣が熱くなったとかなんとかいって、還俗の申し出をする。

その夢をみた。
自分の前に昨年なくなった、私が敬愛して止まなかった大僧正がひょっこり前に座っている。
どうも大僧正のクティ(僧坊)のようだ。

思うところありまして、還俗の許可を頂戴しに参りました。
つきましてはその許可と儀式によい日時をいただきたく、お願いしに参りました。と言ってる私。

大僧正がじっと私をみている。
沈黙がじわーんと広がる。
えも言われぬ感じで感慨深い表情の大僧正。

お前は、25パンサーか。ながきに渡りよくやった。
ここで学んだことをこれから活かしていくのだぞ。

じんわりと胸に熱いものが広がる。
還俗しちゃうんだっていう気持ちと、ほめてもらってすごく嬉しいのとがごっちゃになっている。

大僧正に一つ質問をしてもいいですか、と尋ねた。
どうして私はここに来ることに?

お前とこうやって話すことももうあまりなかろう、といって、私の質問に答えてくれた。

それはお前がここに何の縁ももたなかったからだ。
お前が純粋に魂を磨き、本質、すなわち物事のあり様、学ぶべきことを体得するにはお前は独りにならなくてはいけなかった。
それだけに集中するには、お前の生まれた国や縁があるところでは難しかったのだよ。

もうお前は十分やった。
だからもういくべきところにいって結ぶべき縁を結びなさい。

そう言ったあと、大僧正はお見通しだったとようにふふふ、と笑って
いろいろ腑に落ちたろう、と言った。

日にちをみてやるから、改めて来なさいと言われて
いとまごいをするのに頭を下げている黄衣に身をまとっている我が身をみて目が覚めた。

縁がないことがここにいる理由なんていうウルトラCを誰が考えついたのだろうかとおもう。

大僧正が夢にでてきたのははじめてだった。
一度お目にかかりたい。お亡くなりになるまでそう願っていた方に謎解きしてもらえたことがただ、嬉しく、溜飲が下がった。

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ここではないどこか

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信心深いからなのか、なんだかわからないけれど、「あなたはきっと前世この国にいたのよ」

そんな風にはじめて言われたのが、いつだったのかもう記憶にない。

「前世は〜だった」という言い方になじみもなく、この国や人を理解することが何より自分のいきていく処世術だった頃、そんな風に言われると「うまく馴染めているのかもしれない」と思ったものだ。
嬉しいとかイヤだとか言う感覚よりもむしろ「この人たちは自分を理解してくれていると感じている、自分たちと同じように扱えると思っている」という風に解釈していた。それは何より、彼らを理解するためには大事なことなので、ハードルはクリアできていたのだろうと思う。

じゃぁ、自分が具体的にこの国にいたような実感があるのか、というとそんな既視感(déjà-vu)を体験したこともない。
生徒さんが高名なこの国の占い師にみてもらったら、前世がこの国の偉い人だったことがあるのは聞いたけれど、自分はそう言われたこともなく。いってみれば、私にとってこの国の人たちが私にいう「あなたの前世」話は、私にとっては彼らの体のいいお愛想以上の意味を持たなかった。

数回この国に来た人や、この国の料理が好きな女優さんが「私前世はこの国の人だったに違いない、はぁと」なんて書いているのをみていると、むしろ彼女達の方がそうなんだろう、って思う。

会社に派遣された訳でもなんでもないのに、自らの意思で自主的にこの国のために何かをしたいと思って何十年もいた訳だけれど、そこに因縁めいたものを感じない理由があるのかもしれないと思う。もちろん、今は「何かしたいと思っていた」という過去形だからこんな風に書ける訳だけれど。

ちょっとおかしな言い方をすれば、「愛されていると感じない」というところだろうか。

土地というのはそれぞれにパワーがあって、意思があるから住む人も繁栄させる人も選ぶんだろうと感じていて。そういう風に思うから、日本の人は引っ越しするときにはきちんと地域の氏神様にその旨を報告する。この国にも「国の鍵」「国の柱」があって、県庁所在地にもそれぞれ地域の守り柱がある。お仕事をそこではじめるなんていうときはそこでお願いをするのである。日本でも欠かさずお礼と報告をしていたから、この国でもある方から聞いてこの国でのビジネスの許可と繁栄を求めるお願い儀礼をやったこともある。

傍から見れば、私なんてどっぷりこの国にはまって、やっているように見えていたろうけれど(苦笑)自分では全くそんな感覚はなかった。この国が好きで、何かしたいと思うのにいつもスッキリしない何かがつきまとう。日本ではあまりない感覚だったように思う。それを払いのけるように、足りない何かを埋めようと必死になって努力していたなぁと今ならよくわかる。

自分の中にいろんな変化が起こりだした頃、「私はこの国に愛されてない気がするんですよ」とぽろりと知人の社長さんに食事のときに言ったら、「自分が愛してれば十分じゃないか」というようなことを言われた。私は相思相愛のエネルギーを大事にするから、そんな不感症な一方通行なところは向かない。土地のバイブレーションや自分が生きる場所と自分との関係性に関心や理解がない人に話したおかげで、はっきりと自分の中にあるずれを見いだすことができた。

その時、小さい頃から「ここではないどこか」をずっと探していて、この国だって「ここが探していたところだ」って思えないのに、どうして私は「ここではないどこか」を探して来なかったんだろうと愕然とした。

私にとって「ここではないどこか」というのは桃源郷のようなもので、そこにいれば安心して疎外感を感じることなく穏やかに暖かくいられる場所をさすのだけれど、確かにここはそのどれにも当てはまらない。

そう考えると、私がこの国で前世を過ごした訳でも、愛されていると感じないのも至極当たり前なような気がした。

それでもこの国とこんなに長くつきあうには、何らかの理由や意味があったんだろうと思う。いただいたものに対する感謝の気持ちとできる限りのお礼はしたけれど、もうそろそろ、私にとっての本当の「ここではないどこか」を探す旅に出ようと思う。
きっと、「ただいま」って思える場所があるはずだから。

業と扉

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人生の半分ぐらいすぎてくると、自分がどんな業を持って生まれて来たのかみんなうっすらわかっているのではないかと思う。

私は多分、それに気がつかなかったなら、幸せかどうかはともかく平凡な人生を送っていたんだろうと思う。

大きくわけて二つぐらい、私が背負ってきた業があるんだろうと思っていて。

その一つがきっかけで、私は海外に行ったり、自分の国ではないところに住んでいたりしているのだろうと思う。

もう一つは誰にも話したことがないけれど、今のような環境にあるのはこのせいだろう、と思っている。

二つ、といっても結局は密接につながっているし、深く影響を与えていて。

普通に大学を出て、普通に会社に就職して結婚するような環境に生まれたのに、そうできなかったのには、何かしら因縁があったんじゃないか、ということである。

私がこの人生で、いつでも死んでもいいと思って毎日を送っていたわりには、結構誠実に自分の背負ってきた業に向かい合っていたんだろうと思う。自分がそうすることや感じることに理由がつかないけれども何らかの因縁や関連を感じるものを、見たり見なかったりした時期もあったかもしれないけれども、結局は総ざらいでこの数年の間に痛いほど直面させられ、イヤになるほど考えさせられた。

その原因を探っていくといつもこの二つにたどり着く。

だから、これを【業】と呼ぶことにしたのですが。

誰でも多かれ少なかれ【業】と呼べる何かは持っているのだと思うのです。それに気がつくかどうかは別として。

【業】があるから良いとか悪いのかではなくて、どちらかというと、神様が「今生きてる間にこのことをよーく考えなさい」ってだした課題テーマのようなものなのではないかと思う。

どれだけ考えるべきかは与えられる試練とか状況によるのかもしれない。

それでも考えずに逃げ出したり、直視することをやめたりすることもあるだろう。
私だって、逃げていたことも、直視しないでいた頃もあった。言い訳ばかりしていた頃もある。

でも面白いもので、その業に向き合っていっぱい考えて、行動したときにふと意外な扉が目の前にあらわれる。

誰にでも現れるのかどうかはわからない。だけれど私の前には扉がどーんと現れた。

鍵を見つけるかそのまま扉を無視するのか、簡単ではない選択肢だったと思う。今思えば。
だけれど、本当に藁をもつかむ気持ちで。大ばくちを打ったつもりで。
もう崖から身を投げてしまう気持ちで私はそのときに扉の方を選択した。

実はそれを選ぶしか選択肢はなかったのかもしれない、今思えば。

扉の前で待たされることも、新たな階段が出てくることもある。
扉があっという間に開いて、今まで完全に諦めていたものが手に入ることもある。

いずれにせよ、自分の人生に繰り返し起こされる何かにはきちんと逃げることなく対峙した方がいいんだろうなぁということだけはわかる。

あのときに扉じゃない選択をしていたら、どんな人生だったのか想像がつかない。
だけれど、今のような心境やモノの見方や、自分でなかったことには疑いがない。

泥の中から出る蓮の花のように。
漆喰で固められた仏像から黄金の仏様がその姿を現したように。

みにくいアヒルの子が最終的に白鳥になったみたいに。

その醜さや面倒くささを乗り越えて、自分を見つめていけばそれが花開くっていうことがあるんじゃないかなぁと思う。

全く想像しなかった、今までの生き方では届くはずもなかったものがいきなり、目の前にやってくるってこともあるんじゃないかと思う。

もちろんそれはドラスティックに一夜で変わるものではなく、少しずつ自分の意識を変え、自分の見る物を変え、環境を変え、あらゆるものが「整う」その瞬間まではもしかするとわからないし、もしかすると修行は続いているのかもしれない。

時が満ちたとき。自分がクリアしたものの大きさに気がつくんだろうって思う。

再定義

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子供の頃、物心ついた10歳の頃から日記をつけていたという話はもうすでに書いたかもしれない。

その時に綴っていたことなど本当に些細なことなのだけれど、隠れたテーマは【孤独と淋しさ】だった。家にいても学校にいてもいつも孤独だった。周りの友達はそんなこと全く感じていないような風だったし、もちろん誰かにはなせることでもなかった。

孤独なんていう抽象的なことで表現できないから、クラスの誰かが好きかもしれないとか、そういうイメージみたいなところで「淋しくない状況」みたいなのを想定していたりしたように思う。小学校低学年のときに好きになったF君。彼のことは全く覚えていないけれど、お母さんのことをよく覚えている。女性の割には大きくてやさしいお母さんで、学校に来ているのを見つけては彼のお母さんに抱きついていたから、彼よりもきっとお母さんが好きだったんだろうと思う。

学校や家でもいつも淋しいという思いと一緒にいたと思う。

孤独だとか淋しさなんて自分で起こせる感覚ではないから、きっと何かそう感じさせる経験が記憶の奥にはあるのかもしれない。でもその根源はわからないままに私は自分の中にしっかりと【孤独】というものを認識していた。

小さい頃は自分の中にある孤独が暴れだして、自分でも手が付けられないような感じでいたことをうっすらと覚えている。小学生の高学年の頃は包丁を持ち出しては「死にます」って言って騒いだことも一度や二度じゃなかったと思う。自分じゃない何かがどうしようもなく泣きわめいて無茶をしているような感じだった。

「死ねるもんなら死んでみろ」と父にいわれたことを今でもはっきりと覚えている。死にたくなかった、というより、その勇気がない自分にふがいなさを感じた。
学校でも家庭でもそういう風に行動せざる得ないでいる私のことを理解してくれる大人などいる訳もなく、成長するにつれてそんな風に発散することもできず、ただただ日記にその思いを書き散らすようになっていった。

時代的にいじめが社会問題になる頃で、学校ではひどいいじめも受けていたから、あまり目立たないようにびくびくしながら生活していた時間も長かった。ひょんなことでものすごく驚くのはもしかしたらこの時の名残かもしれない。

家庭も厳しい家だったので、共働きの両親が帰ってくると緊張していた。何に叱られるかわからないので、家でも親の前にいる時は緊張して、びくびくしていた。叱られないように先回りして行動しておくようになったことは今となれば有り難い。

孤独と淋しさのあまり不意に感情的になったり不安になることが多くて、誰かといればそれが解決するのかと思っても、淋しくなくなるどころか余計淋しくなったり、淋しさからくる感情の起伏が喧嘩の原因になったりして上手く行かなかった。

大学生のとき、真剣に「孤独」と向き合ってみようとたくさん本を読んだ。その中の一冊、串田孫一さんの「孤独の生き方」という本を読み終えたとき、孤独というのは自分の存在そのもので、死ぬまで内在し続けるのだから、うまくいなしてつきあわないと仕方が無い、と得心した。

思えば、子供の頃からいじめられたり、家でも緊張して暮らしていたり、留学するといっても一人誰も関心のない東南アジアに行くし、留学先ではお妾さんの家で所在ない思いをするし、いろんな人が集まるアルバイト先ですら宇宙人って呼ばれていたぐらいだから、どこかに帰属している、仲間であるという意識がうまく持てなかったのかもしれない。

孤独というのは常に身の回りにあるものだという発想の転換は淋しさの代わりに、「一人生きて一人死ぬ」みたいな感覚をものすごく強めていったように思う。もともと、帰属意識が希薄だから「私がいなかったら上手く行くはずなのに」と考えがちなところに「人は皆一人」みたいな意識がつくと、人間関係についてはあきらめが早くなる。身を引くということが苦でなくなるのである。それは帰属していない、という意識や自分の能力や存在を卑下していることからきたものなのかもしれない。

あまりの引きの早さに、「引き止めてほしいが為に、思い通りにしたいがためにそう言っている」といわれることもあったけれど、自分は所詮一人で、枠外の人間だから丸く収まるのならそれが最善ですと素直に思えた。私はそんな駆け引きのテクニックが使えるほど賢い人間でもない。それは当時も勉強していた仏教の手放すということをよしとする教えに深く共感していたからかもしれない。

だからだろうか、離婚してたった一人の戸籍になった時、安堵のような感覚を持っている自分がいた。一人でいるということは孤独であっても何より疎外感を感じなくてよい。

「淋しい」という感覚を持ってからかなり長い時間をかけて孤独と向かい合い、葛藤してきて、共存するようになった。

孤独とうまく共存していくと、孤独とは自己との対話だと得心したのでずいぶん孤独を楽しめるようにもなっていた。他者との何かを深めたり帰属することを求めなければ、比較するものがないのだから孤独を感じる必要すらない。そのとき、私にとって孤独は淋しさを生むものではなくなったのである。

誰かといても孤独感を持ったり、淋しいという感情は生まれる。大切な誰かと離れても淋しくなるが孤独感は生まれない。この差異は一体どこから生まれるのだろうか。

一人生きて一人死ぬという孤独をいくら受け入れても、自分が崖っぷちに立っているような感覚に陥る時が全くなくなることはない。孤独というのは魂が安堵する先があるかどうか、なのかもしれないと思う。心から愛する人でも信仰でも魂を安らがせる存在があるということが、物理的に一人であるということを超えて魂を落ち着かせる。いくら隣に誰かがいても、魂を安らがせられないのであれば、人は孤独なのである。

淋しさというのは結局は過去に体験した温かな何かを渇望する感覚なのだろうと思う。人が人と暮らすときに必然的に生まれるぬくもりは誰もが知り得るはずの原始的な感覚として、人間にインプットされている。孤独よりももっと肉体寄りの自分ではない誰かの暖かさやぬくもりを感じることで得る幸せを求めているような気がする。

孤独に慣れることで孤独から解放されるような気がしていたけれど、タイトルを「再定義」としたとおり、孤独ではないという時、その魂は安らいでいられる状態をいうのだ。魂が愛で満ちているような。

孤独に慣れてしまっている私は、当初その変化に戸惑っていたように思う。当たり前のようにあった不安感を持たないで目覚める朝はなによりも穏やかだから。それは幼い頃から経験したことのないものだったのだ。

人は一人生きて一人死ぬ。確かにそれは変わらない。組織や家庭の枠の外にいる人生も変わらないだろう。だけれど、孤独でなくこの世に別れを告げられるのなら満たされた人生だったねといえる気がする。

のびのびしているっていいね。

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私のこの国でのニックネームは「ねこ」という意味なんだけれど、そうなったのはずいぶん昔に私より一回りぐらい若い男の子と知り合った時のこと。年若い彼が知り合ったばかりの新しい友人でかつ年長の私にいろいろ気を使って「あぁしようか、こうしてあげようか」ってひっきりなしに連絡してくるのが面倒くさく、「嫌だ」「嫌だ」と自由奔放にいっていたことから、それがまるでねこの鳴き声のような音のつながりの言葉なので「ねこちゃん」と呼ばれるようになったのがきっかけである。

猫っていうのは犬よりもだいたいにしてのびのびしている。自分基準で、自分の快適さを追求しているように思う。犬みたいに飼い主にぺったりと愛想を振りまくこともあまりない。

「名は体を表す」というけれど、それは本当なのかもしれないなぁと思ったのは、私を「ねこちゃん」と呼ぶ人に対しては普段の私よりもずいぶんはっきり物を言うし、嫌なことは「イヤ!!」と言う。こういうことは日本語の名前で呼ばれる環境よりもかなりあからさまにその傾向があるような気がする。

語感がたまたまイヌじゃなくてネコだったから隠されていた性質が発露したのだったら、まさに無意識の中に猫っぽい自由さが刷り込まれた?なんて不思議な状況なのだけれど。

「ねこちゃん」というあだ名の話は刷り込み的なお話だとしても、実際、思い込みから解き放たれてからはすこしづつ、自分らしくのびのびしてきたなぁと思う。

いろんな方法で頭や精神を解きほぐそうとして、瞑想やいろんなことをやってみたけれど、魂がぎゅっと固まっていたなら本質までは届かない、「何か違う」と思っていることをみすみす見逃してしまうようなことがずいぶんあったと思う。そのころの私は自分らしく、ということが全く何のことか理解できていなかったんだろうとも思う。自分らしくいるよりは、なりたい自分やありうべき姿ばかりを追いかけて、自分が何を求めているのかに注意を払おうと全くしなかった。

その結果、いろいろな教えだとかで塗り固められた表面によってうちなる声が響かないようになっていたんだろうと思う、ずいぶん長い間。

小さい頃、自分が化け物のように感じていた。自分という化け物をギュウギュウと自分の奥底にしまい込んでおきたかったんだろうなぁとおもいだす。

のびのびしている、って言うのは自分の思いのままということで、押し込められる先であった「ありうべき姿」や「理解すべきコンテクスト」がないのだから。

そうやってのびのびして望む世界は、以前よりも明るくて、ナチュラル。
もう化け物はいなくて、ちっちゃい何もない私がいるだけ。

生まれ出た気分で、何だってできそうな気がする。

哲学科研究室のゼミ室に差し込む夕日

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大学2年の終わりの頃だったろうか。

自分の興味関心に大学の授業があまりにもの足りないでいる私を危惧した指導教官が、「この人に会いにいってご覧」といって会わせてもらったのが、私の大学から山を二つ越えたところにある大きな総合大学の哲学科の博士課程の人だった。

緊張した面持ちで一回りも年上の高野山の研究をしている彼と面会をした。年よりもずっと若く見える彼は私の話をひとしきり聞いたあと、「じゃぁ、K先生の授業でてみたら、それがいいわぁ。私から先生にお願いして改めて連絡しますから」と彼の故郷の茨城弁なまりでいってくれた。

おそらく、外国の宗教ばかり勉強していた私に国内のこともやっておいた方がいいという指導教官の配慮で私はとある大学の大学院の哲学科のゼミに出席することになった。

K先生は当時は東京大学の教授でこの大学には非常勤で教えにきていらして、数年めだったように記憶している。最寄り駅からバスに揺られて、たくさんある学部ごとの建物にくらくらしながら文学部の哲学科にようやくたどり着いて。

6階か8階に学科の事務室みたいなところがあって、そこにおそるおそる入っていった。ほかの大学のましてや学部生だからいいのか?って気持ちで緊張しながらおずおずとその奥にあるゼミ室に入った。

そこはおそらく多くの人が「研究室」って言うと思い起こす、天井までいっぱいの古い本とその古い本が醸し出す埃っぽいかんじとと甘い匂い。積み上げられた本で薄暗い室内に小さめの窓。

K先生は笑顔でひとしきりの経緯は聞いたこと、私の自宅近くにある大学に数年勤めていたことなどを話した上で、快くゼミに参加させてくださった。

その当時、ゼミでは鎌倉仏教の思想を研究していて、叡尊というお坊さんの書いたものを読みながら当時の思想を調べて発表していた。もちろん「ごまめ」なのだけれど、学外でかつ門外漢の私にとっては刺激的な場所だった。「学問ってこういう風に生まれるんだ」みたいな雰囲気を先生とほかの院生の人の議論でずいぶん味わうことができた。

「ごまめ」なんだけれど、一年に一度ぐらいはK先生から「こんちゃん、たまには、やってみる?」と言われて発表する機会をもらったけれど、緊張しすぎて何をどう発表したかすら記憶にない。K先生は当時既に著名で素晴らしい業績もお持ちでしたが、それに加えて素晴らしいお人柄で、いつも明るく、いろんなことをすべてお見通し、という先生だったので私も3年間もこのゼミにお邪魔できたのだろうと思う。

学期末の懇親会は先生の発案で「ごまめ」の私がちょっと変わった海外のお料理を出すお店を探して幹事をするのがお決まりで。

自分の大学の同級生とよりは少し年齢が離れたお兄さんお姉さんであるこのゼミの先輩にも先生にも本当にかわいがってもらって、居心地のいい、学問って楽しいなぁと思えるのんびりした時間をいつもいただいていた。

夕方、夕日が小さな窓からさしてくるのをかんじながら、数百年前の人の思いを汲み取る時間。
それを古びた多くの本が見守っている。

本を多く読む人というのは、見てすぐわかる。姿勢やスタイルがもうそこにあるから。
集中して先生や先輩が本を読む姿が似合う空間。思索の引き出しを引き出せるような空気。そしてなによりも、静寂。

私の行った大学は新しくて、研究室も何もかも無機質だったから、この大きな歴史のある大学で知が重ねられていくのを感じられたことは何よりも幸せだったと思うし、そのあとの人生にもひとしきり影響を与えたのではないか、と思っている。

郵便局。

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小さい頃からお手紙が好きだった。

お手紙を書くのももらうのも。

子供の頃住んでいたお家の小さな赤いポストを何度も何度ものぞいたし、
郵便局のおじさんのバイクの音まで聞き分けられるぐらいの子供だった。

郵便が好きなのか手紙が好きなのか、その頃はわからなかったけれど。

この国に学生時代にきて、近所と学校以外で最初に親しくなったのも郵便局の配達員のおじさんだった。

おおよそ文明的なものからかけ離れた世界で、彼のもってきてくれる手紙や小さな荷物こそが、私のささやかな楽しみだった。

とはいえ、そのころの郵便事情はお世辞にも良くなかったから、送ってくれた手紙だってどれだけ届かなかったかわからない。

それでも、家で何もしていないときは店の前のベンチに座ってぼんやりとおじさんが来るのを待ったものだった。

そう言う訳で子供の頃から郵便が好きなせいか、郵便局に行くとなんだかわくわくする。

何万通もの思いが乗った物だとか手紙が世界中に行くと思うとなんだかたまらなく楽しい気分になる。

楽しい気分でいくからなのか、だいたい郵便局には顔見知りになった仲のいい局員が数人いる。ちょっと世間話をしてみたり、なんだかいろいろ。日本にいると郵便局の代わりにクロネコヤマトの配達のおじさんやお兄さんと仲良しだったけれど。

私がはじめにこの国に来た頃はインターネットなんかもなかったし、どこでも国際電話がかけられた訳じゃなかったから、そういう大層な用事のときにはこの写真の中央郵便局にこないといけなかった。

この天井が高い、古き良きこの国の西洋建築の名残を残した建物は昨年までは通常業務に使われていたけれど、今はそのほんの端っこだけを改装して業務に使っている。

改装が終わると大層な飾りもついちゃったからちょっと感じが変わったけれど、中はあまり手を入れていなくて、おしゃれな窓飾りだとかもそのままに今の業務しているところからもみることができる。

誰かと話したかったり、気持ちを伝えたかったりという意味では古い郵便局には大きな古い駅がもっているようなセンチメンタルな感じがあるような気がする。駅は実際に自分がどこかへ行ったり、相手が帰っていったりするためだから余計センチメンタルだけれど、「物」や「手紙」に思いを託す雰囲気と、駅よりもシステマチックにハンコをばんばん押す音だとか、荷物をがちゃがちゃと積み込む様子が駅とは違った旅情的なものをかき立ててくれる。古い郵便局ってそう言うざわめきをもっていて。

今みたいにあっという間に誰かとつながれる時代、それはスピーディーだし確かだし。とても有り難いんだけれど、古いこの大きな郵便局に来ると、「どうかこれが無事に届きますように」そんな気持ちで投函した、届いたかも返事が来るかもわからないでいた気持ちをふと思い出していた。

名前の大切さ。

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安岡正篤にこのような言葉がある。

名前をつけるということは大事だ。
だから、名前はおろそかにしてはいけないので「命名」と言う。
「命」と言う字は絶対的という意味でいのちという。
だから非常な意味をもって付ける。

自分の名前は自分で付けていないけれど、結果的にこの名前で良かったのかなぁと思う。
サブの名前は母が付けようと思っていた蕗子かな。路という字が入っているのが好き。路のようにまっすぐと筋の通った植物という意味。

座右の銘で「いたりうべしやそは我知らず、歩み歩みいく、この遠心」という佐佐木信綱の短歌を良く思っていたけれど、蕗子という名前はここに通じる気がしている。

結局、できないでいたけれど、この国である名前の会社を作りたかった。思い入れがありすぎて結局登記できなかったという笑い話付きだけれど。
はじめに作った会社は人に名前をもらってつけた名前だったし、とにかく、自分の思いを込めてつけようと、辞書をひき引き探し当てたある名前。

神様の乗り物、という意味。

数年前、あることをきっかけにいかにして自分の意志を超越して世界や社会のためにいけるのだろうと考え始めたときに、自分という存在をどういう風に認識して高めていけばいいのだろうか、と考えた。

神様でも宇宙の大きな存在でもいいけれど、いずれにせよその意思なり方向性を具現化するためには道具がいるだろう。そのいい道具になりたい、という思いから、神様が安心して乗れるような乗り物に自分を高めていこうと思った訳で。

それと同じ意味を持つ名前の会社こそが、大きな意思を実現させられるのかもしれない、と思っていて。

結局その会社はできなかったけれど、その志は変わらず私の心の中にあって。

まっすぐと道をあるく。少しでも神様のいい道具となるように自らを高めながら。

何をするべきかは「カミサマノイウトオリ」で、ただただ入れ物としての自分を磨く。