語り得るもの。

2014-10-22 17.23.35

あっという間にもう11月に入ってしまった。

先月あたりから、一年かけての変化に加えて新たに関心を持って勉強している領域・思考のスピードや気付きがあいまって言語化するのが追いつかない。

日々のパーツではその気付きの深さではわからないし、その気付きだけ抽出しても普段このようなことを考えていない人にとっては『何のことだろう』ということにしかならない。ある程度誰かに読んでもらうことを想定するには『熟成』という『こなし』がますます必要になって、残しておきたいのに残しておけないという悩ましい状況が続いている。

日々の各論に意味がない訳ではないけれど、包括的に連動して理解をしないと自分を自分足らしめる『軸』というか『芯』にまでたどり着かない。何でもタイムラインやハウツーものや誰かのシェアした情報にコメントを載せているだけでは仕方がない。それだって誰かのコピーアンドペーストなのだから。

タイムラインをみていると、シェアーする人の知識のように、書き込み主の知識のように考えているそれらの知識だって、所詮その多くはどこかからのコピーアンドペーストでその人がいろんな想いや体験をして吐き出したものではない。

まぁ、そういうのが好きな人たちはそれでおててつないで同じ魂なのだろうからそれも由だろう。
そういう仲間に入れなかった自分を『なぜ』と思い続けていたけれど今は入れなかった理由もよく理解していて、これでよかったと思っている。

だから、私のように淡々と考え続けることや違いを持っていくことは大変だけれど、それなりに意味はあるし、多少なりとも私の書くものが読む人の心の中の何かに寄り添えればいいなとおもっている。

だからといって、『あなたの書いていることがわからない』とのたまう思考停止な方にわかるように書くつもりも、言葉を教えているときのように『あなたもすごいね、素晴らしい、愛だね』というつもりもない。だって人生の思考を続けるのは岩山を登るような孤独さがある。
そこに必要なのは小さな明かりやほっと安らぐ温かなコーヒーだったりする。そこにふかふかのベッドは不釣り合いなのだ。

魂の修行をしている同士、お互い頑張りましょうという気持ちでその歩みを進める、気付きをもらうことと、歩みを助けられることとはちがうと思っている。言葉を教えていたときもこういう気持ちが根底にあったから、教えられる側は窮屈に厳しく感じていたのだろうとも思うけれど。言葉の学習にしろ魂を磨くことにしろ、歩みは誰にも助けられないのだ。一歩一歩、自分で決めて進んでいくしかない。

言葉を教え始めて10年程で独自のメソッドを作り上げたけれど、最終的な目標はここだろうと思う。メソッドとはいかなくても、メソッド的な俯瞰した概念を提供できればと思う。私のメソッドは『わかる人にはすごくわかる』方法論でかつ合理的に愛に満ちあふれたものだった。考える習慣を持っている人なら納得できるものになっていたと思う。

私のメソッドでは理解できなくても『その通り』やればできるのですごさがわからない。身に付いているのだけれど、それが『大変さ』を経ないために実感がわかなくて評価されなかった。(マイナー言語だから実践の場が限られていることもデメリットのひとつだった)

だから、今考え続けていることが結果、何かまとめられたとしてもそういう結果だけは招きたくないとも思っている。

わかる人にだけ、しっかりと伝えるべきことを伝えられるように。そのために隗より始めよ、粛々と修練をするに尽きるのだろうと思っています。『行動だけがすべての証』という、私の大切な信条の元に。

自分が変わることで結果的に巻き起こる変化とその覚悟。

2014-10-14 14.24.58

自分の身近な人に堪え難い何かがあるとしよう。又は本人が堪え難い問題があるとしよう。

自分は相手ではないので、その堪え難い何か(習慣かもしれないし癖かもしれない)や問題には直接手出しをできない。
いくら自分に大切な存在でも相手は自分ではない。

変えられない。

これが現実だ。

それを心配してみていたり、イライラしてストレスをためたり、いつかよくなるだろうと楽観するのも一手だと思う。
だがその人が本当に大切なら。
自分は放っておけるだろうか。

ただ相手を非難してみたり、心配しすぎて鬱陶しがられるのもなんだか違う気がする。
すべて自分に持って来たときに、その人の痛み苦しみや悩み、その原因を自分のことのように思えるのか。
「そんなあなたが悪いの」「仕方ないわよ」

と思うなら、私の思う大切とは定義が違うんだろうと思う。
癖であれ状況であれそれは表層であって、それがおこることを余儀なくされた原因が何かしらあるはず。

それを心から感じて、取り除けるなら何でもしてあげたいと思うかどうかだと思う。
人と関わるというのはそういう覚悟があっていいはずだから。

表層ではなく根源を取り去るにはその根源にある心の問題にフォーカスしなくてはいけない。自分の心を見るように相手の心を見ないときっとわからない。その根源がすぐにわかるとも限らない。

その根源が孤独や不信、なんであったとしても行動を持って愛を示すことで相手は変わっていく。

例えばいつも優しい言葉で挨拶を欠かさない。感謝の言葉をたくさん紡いで届ける。褒める。なんだっていい。それを常に心を込めて滅私で相手にし続ける。褒めるという言葉や波動は壊れたDNAを修復する効果があるというロシアの研究があると先日読んだ。だから褒めるのもいい。それで傷ついたものが癒されていくこともある。

いやがられることも、不審がられることも覚悟で、相手がどんなに大切で素晴らしくて愛おしくて、存在に感謝しているかを伝える。病気なんかの好転反応と同じで、いやがられるときもあるかもしれないけれど、いつか何故自分がこうしているかをわかってくれる日を信じて、自分の大切な人にただひたすら尽くす。

いつこれが終わるかわからない。きっと傷の深さによるのだろうと思う。
それだけ長くかかるっていうことは、本人がそれだけ長い間苦しんで来たことの証でもある。
これは私も体験して来たことだからよくわかる。

だけれど、乾いたスポンジに徐々に水がしみ込んでいくように、行動と言葉を通じてかけて来た癒しの力は、あなたの大切な人の辛さを必ずや変えてくれる。それまで根気良く続けられる覚悟があるか、それに尽きる。

相手を変えるのではなく、自分が相手にできる限りの想いと愛を行動で自分を変えていけるかどうか。それにかかっている。
その想いが通じた日、当初の自分の願いであった相手の苦しみが取り除かれるんだろうと思う。

その過程こそが、問題の解決よりももっとかけがいのないものになるということは体験者でないとわからないのかもしれない。ただ、中途半端で生半可にやればもっと悪い結果を招きかねない。

自分に愛があるのか、覚悟があるのか。
問われるのも、変わるのも自分。
あなたとあなたの大切な人の苦しみが少しでも軽減しますように。

気付きと愛、褒めることと褒められること。

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毎日考えて深めていくこと。それは魂を磨きに磨き、曇らないようにしていくことでもあって。
間違いに気付き、ただし、許す。よいところを認め、のばし、一層愛する。その連続。

愛とはなんなのだろう。
溢れ来るやむにやまれぬ暖かい何かが愛なのではないか、と言うのはあまりにもイメージ先行型というか感じている感覚や映像を言葉にしているにすぎないのかもしれないけれど。

愛と言うのは究極に暖かく美しく強い波動なんだろうとも思う。
その溢れる源をいつも感じているし、思っている。

自分がそれを回りに波及させたり届けるにはいろんな方法があると思う。
私は教えることを自分の仕事とし始めてから、「褒める」「いいところを見つける」という才能に長けていることに気がついた。褒めて伸びる人と伸びない人とがいる。
その話はあとにして、私が先日深く感じ入ったあるブログのエントリーの引用をまずはご一読いただきたい。

水晶の家れいさんのブログから一部引用させていただきます。引用元はこちらです。

☆褒められれば心が喜び感情が高ぶります。脳が生きる意欲の「ドーパミン」(快感増幅)を分泌させます。
エンドルフィンといって脳内モルヒネも分泌されて精神的ストレスの解消にも役立ちます。
免疫細胞の防御反応が強化されますから健康には最適なわけです。少しの心がけも自分への躾と考えましょう。自分を褒めたり評価してあげるのは当初恥ずかしかったり抵抗もあるものですが、自然と違和感なく善なる心が発信できるようになるものです。素直な心がそのとき役に立つのです。

☆この話の大切な部分は、これからです。何故意識の快である「褒める」ことが幸福や平安、調和をもたらすのでしょうか。それ実に論理的に出来ています。つまり人間の進化を司る愛の表現のワンシーンだからです。
意識の世界は実学であり人間本源の生命の本質を知る上で新時代には避けて通れないものです。

☆へりくだることが美徳と勘違いしている場合があります。「いえいえ、私なんか…」とはよく耳にする謙遜言葉ですが深層意識からすれば理解不能かもしれません。謙遜はのぼせ上った人には調整としていいのでしょうが、正しく社会活動をしている人がいて周りから評価されているとすればそれはそれで「有難うございます。」で返礼を返せば内外に良い影響が放散します。くれぐれも卑下し過ぎたりへりくだりすぎは深層意識には曖昧ととられますから注意しましょう。正しく評価判断して感謝の念を伝えましょう。

☆自分の善きことを評価し褒めることは意識に明確な快のサインを送ります。瞬時にそれは処理され次なる現象化の礎になります。
自分の善きことも必ず正負同等の価値を含むものであります。それを瞬時に看過し、創造の法則に則ったもので自然で無理のない建設的進歩的事柄であれば次なるイメージが新たに脳裏に浮かぶなり偶然としか思えないような現象が続きます。
評価され褒められ感謝される事柄は、創造の掟に叶ったものであることが望まれます。これが曖昧だと不自然な社会が出来上がります。

☆パートナー・夫婦同士も何かにつけて良いことは褒めてまずいことや悪習は互いに除いてゆきましょう。子供は親の背中を見て育ちます。感情で指導することのないようにしましょう。そして良いことはきっちりと目を見て褒めてあげましょう。

・・・・・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・

心が喜ぶ=ドーパミンが出る=エンドルフィンも出る=精神ストレスが解消=免疫細胞の防御反応が強化=心身の健康にいい。
褒めること=幸福や平安、調和=人間の進化を司る愛の表現のワンシーン
ということが明確に書かれています。

また一方で、「褒めるとは、感謝行であり自分に対する評価の現れです。また、それは鏡の法則でもあり、相手に見る美や徳や感謝は取りも直さず自分の優れた美徳の投影」とも書かれています。

私は仕事柄、多くの人を褒めて来たつもりでしたが、褒めても信じない人、褒めたところにあぐらをかいて何もしなくなる人、褒められたことを素直に感謝して受け入れる人と大きくわけて3種のパターンにわかれました。

「褒めて伸ばす」というのはこの3番目の人にだけ当てはまる手法なのかもしれないと思いましたが、褒め方が今からすると足りなかったのかもしれません。自分にないものを「素晴らしい」と素直に認めて褒めること「よくやったね」と言えることはやはり人間関係の基本です。

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褒めるという単語を聞くと、なぜか高倉健さんの「あなたに褒められたくて」 
というエッセイのタイトルが頭に浮かびます。

あの高倉健でさえ、誰かに褒められたいと願う。
褒められるというのは部分的であれ完全な肯定であり、賞賛です。
その積み重ねが自信になり、感謝になり、ますますよい芝居をしようと思うのか、内容を読んでいないので想像にしか過ぎませんが、このタイトルにはそれだけの想像力をかき立てる人間の素直な想いが出ている気がします。

みんなでなくてもいい、ただあなたが褒めてさえくれればいい。
人間というのはかってなものですから、褒めてくれる相手すら、実際は選んでいるのかもしれません。

私はあまり褒められるようなできた人間ではなかったので、このタイトルには何となく思い入れがあるのもそのせいかもしれません。褒められたいという一心で、なすべきことをなす。それだって立派な目的なのだから。

だから、精一杯、言葉と身体を駆使して褒めるということが必要なんだと思います。
褒めるというのは人生という長いレースの中のドリンクの補給や食べ物の補給だったり、道ばたでの声援のようなもので、その褒められるということを通してまたエネルギーをチャージし、ゴールに向かって進んでいく。

褒めるという行為を通じて人は自分を振り返り、人の魂にエネルギーを注いでいるようで実は自分の魂を磨いているのだと思います。その言葉や態度に人は癒されて、自信をつけ、一人ではないと安心して進んでゆけるのだと思います。

褒めることも褒められることも天秤にかけず、ひたすら自分と相手の美点に気付き、それをのばしていく。
それが魂を磨くという行為=愛なんだろうと腑に落ちました。

言葉の形作るもの、視界が変わる時。

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「あんたはかわいいなぁ」と言われて育つ子と、「お前は出し殻やな」と言われて育つ子だったら圧倒的に前者の方が素直に顔立ちももっとかわいらしく育つだろうと言うのは周知の事実かもしれない。

毎日起きたら、「おはよう」と言って、帰ってきたら「ただいま」「おかえり」って言うやり取りが作り出すものって言うのは一体なんだろう。

一人暮らしが長いと、独り言が増えるというけれど、もっと長くなるといつの間にか私は言わなくなった。誰かが同じ空間にいる想定が自分の中になくなったからだろうと思う。

言葉って言うのは環境を創り出すものなんだろうなと思う。

独り言は言わなくなっても、いってきますとただいまといただきます(時々さぼる)は言う。
それは対象が人ではなくて住んでいる空間だったり、神様だったりするからだ。

愛してます、とか、ステキだね、とか格好いいとか、すごいねって言うことは単純に言葉を交わす、言葉をかける以上に意味がある。それらは「蓄積していく」のだ。

あえて書かないけれど、その逆の言葉だってそう。
言葉の威力は一発の破壊力はともかく、この「蓄積していく力」に人間関係では本領が発揮されるのではないかと思う。

カエサルが言った言葉で印象深い言葉がある「人は見たいものしか見ない」、と言う言葉だ。

相手が自分にとってステキな存在でいること、それが自分にとって誇らしい存在だと言うことは当然自分にとって「見たいもの」である。その「見たいもの」を創り出すのは自分の相手にかける言葉もその要素の一つなのだろうとおもう。

まさに仏教用語でいうところの「相即不離」(意味:関係が非常に密接で切り離せないこと。区別がつかないほど密接な関係のこと。)なのだ。

たとえいくら感謝をしていても「一緒にいると疲れるよね」とか言ってしまうと、「疲れる人(モノ、場所)」にしか見えなくなってくる。

言葉と言うのは言った瞬間、消えてなくなるけれど、「言葉にする」と言うのは行動なのだ。

相手を愛しいと見るためには愛しいと感じている言葉で、心を込めて。
相手が自分でも同じことが言える。

私は自分にずいぶん厳しい言葉ばかりかけてきたけれど、最近、「あなた辛抱強いねぇ」とか「よくいろんなことが見えてるね」と評価してみる。そうできるのも私にずっと思いやりの詰まった言葉をかけてくれる人がいて、私の中にしっかりと蓄積してきたからこそ、の変化だと感じる。

その蓄積のおかげで、私は次第に迷いがなくなってきたように思う。

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簡単な実験で「ありがとう」とか「愛している」と言い続けた水や植物と、「バカ」とか「嫌い」とか言った水や植物だったら創り出す結晶が違ったり、腐食の度合いが違ったりすると言う実験を見たことがあると思う。

水に小石を投げたときに広がる波動のように、その言葉がその空間や相手に波及し、その空間や相手に影響を与え続けると考えるとその大切さを一層強く意識しなくてはと思う。

小さく起こった波が起こす影響はリアルタイムではなく、波動がどんどんと広がるに連れて離れた先にある船を揺るがす動きになるような感じで物事って言うのは変わっていくのだろうかという仮説を今立てている。

視界が変わるのは船が揺れた時。
その結果が分かった時、どの波が何を起こしたのかを私は知ることができるのかもしれない。

(とはいえ、視界が変わることこそが目的なのだからどの波であれ構わないと言えばかなわないのだけれど。)

鏡のような存在に

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最近のスモールビジネスなんかは特にブログが広告みたいな感じになっていることもあって、「語る」のが当たり前になっている。
世間のこと、政治のこと、自分のこと、陰謀論などなど。

「あれを使ってはいけない」「これはこんなに悪意に満ちている」「あなたこんな風に考えてませんか」
世の中なんて今までもそういうものだったけれど、書籍から媒体がウェブに移行するとそれを語る人たちがどっと増えたんだろうと思う。

このブログも人に語ると言うよりは自分が気がついたことを「書き残したい」と言う衝動に駆られて、人様にも見られる文章で残しているに過ぎない。日記何かだとやはり「前提条件」が多く入りすぎて、主観的すぎてよくない。

それはともかく、Facebookのタイムラインなんかをみていても、すごいパワーだなと感じる。
周りに伝えなくては、教えなくては、これは悪なんだ。みんな知らないんだ。だから教えてあげる。

何かもっといい手はないのだろうかといつも思う。
日本の人はみんな商売に結びつける勤勉さももってるから余計なんだか頑張ってる感が出るんだろう。

私は自分の考えが世の中をよくすると思っても、人の役に立つにしても、あんまり誰かにダメだししたり、「教えてあげる」みたいな感じは苦手だし、無理してやっても続かない。教えると言う仕事に就いていても「たまたま自分が先にできるようになっただけ」と思っているからかもしれない。

何をテーマにしていようとダメ出し、啓蒙してるのって、結局論調で同じグループにカテゴライズされている気がする。主張が違ってもにたような組織に見えるとか、あるでしょう。あれは方法論が同じだから何だと思う。

ダメ出しっていうのは現状分析と未来の展望がセットになってされるものだと思うし、体制などの批判にしても対案がなければ意味がない。

結局は自分にそんな人をとやかく批判分析したり、啓蒙しようなんて精神的なパワーも何もない訳なんですが。
かといって「愛してます」とか「ありがとうございます」のオンパレードも自分にはできない。

それでどうなのかっていうと「行動だけがすべての結果に帰結する」という私のいつものロジックに到達する訳です。
この大きなウェブの世界で起こし続ける行動が、いつかその波動が何か変化を起こすために自分が良しとすることをし続け、それを発信する。

自分の思う人間のありうべき姿、社会、人間関係。それを実践することからしか波動はあがっていかないし、伝わっていかない。
私は自分を高めていくことに一生懸命すぎて誰かにその波動が伝わることを拒絶していた嫌いがありますが(まだある)、これからはもう少し波動が伝わっていくようにするのを妨げないでいようとおもいます。

自分がとても心地よく幸せにいるためのいき方は人それぞれだけれど、同じ価値観の人にそれが広がり、気付きを得あうのも悪くないんだと。見つめて見守るときと、相手の姿を鏡に映すその鏡となる時。そんな鏡の様な存在になればいいと最近思っています。

きれいに磨いて曇らせないように。
それが自分にとっての精進でもあるとも感じます。

自分がただあること、恥ずかしくない姿で。それが基本。

誰かといるということ。

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孤独だといろいろわかっていいよ。みたいな記事を見たときに、一理あるけどなんだかむずがゆい感じがした。

ずっと長い間私は「誰かといるのに孤独」というのを感じてきた。
残酷な淋しさなんだと思う。

一人で長くいるようになると、誰かといるのがおっくうになる。

自分でやった方が早いし楽だし確実だし、がっかりしない。

独立した人間っていうのはそう言うものなのだろうと思う。
わざわざそのメリットを書き出すまでもないぐらいのことなのだ。

そんな人間が誰かといるという選択をするということはよっぽど「その誰か」といることが一人でいるより時間よりも素晴らしいということなのだと思う。

1983年に上映された、「愛と追憶の日々」はシャーリー・マクレーンとジャック・ニコルソンの年を取った二人の恋が一つテーマとして描かれている。

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この物語の中で、恋愛が燃え上がって落ち着きを見せ始める頃、ジャック・ニコルソン演じるギャレットは、彼女に別れを告げる。「二人でいる時間」があまりにも素晴らしすぎたことが、失う不安を感じさせた結果、彼は別れを切り出したのだろうと思う。

あまりにも幸せすぎると、もう昔の「孤独」だった自分に戻れない。
ギャレットはそれが怖かったんだろうと思う。
エマはその気持ちがわかるからこそ、あえて彼を追わない。
彼女の中にも同じ気持ちがあるからこそ、追えなかったのかもしれない。

孤独を深く知るものが誰かといることほど、覚悟が必要なことはない。

白州次郎は正子に彼女にこういう一節をしたためている。

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お写真はこちらから

You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.

寂しさとかありがちな感情を乗り越えた後に孤独の中に得た平安を捨てて、誰かといるということはその相手が自分にとってこういう存在なんだと思う。

一人では、他の誰かとでは決して行けない領域へ行ける相手。
心身が安らぐからこそ、インスピレーションもアイディアも泉のように涌き出る。
お互いの思考や環境を最適化しあえるバックグラウンドを持ち合わせている。

時間を経て共にいることが習慣や日常に埋没するものではなく、よい陶器などのように使い込まれてより馴染んだものになっていく。

美しく年を取っていける間柄であるということ。
それは男と女であるということでもあるのかもしれない。

誰かといるということが自分という個人を際立たせ、更なる能力を引き出し、自分一人の時間を一層プレシャスにし、一人の時間に得た気付きをまた共有したいと思える相手。

そういう人といるということが孤独を超えて、誰かといるということなのではないかと思う。
自分と対峙し続け、孤独と語り尽くした者のみが得られる、パートナーシップ。

絶対かなわない人は誰ですか。

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お写真はこちらから拝借しました。

ジョージクルーニーってステキだなぁと思っておりました。

コーヒーのCM?のはにかんだ笑顔がかわいいらしいなと。
女性にとっても男性の笑顔って魅力的ですし、その笑顔に惹かれる人がステキだなって思うのは自然だと思います。

あんまり映画スターに関心があるタイプではないのですが、独身貴族っぽいイメージから一転、イギリスの弁護士さん(とはいってもとてもお美しい方)とのゴールインは彼の監督している作品(例えば、Good Night and Good luck)やルーツを考えると当然だろうな、と思います。

婚約者の方とも彼がやっている活動を通じて知り合って恋に落ちたんだそうです。

大人な女性がつい「きゃー」と言いたくなる彼が(笑)、「俺は自分よりもうんと優れた人と結婚するんだ」「彼女と結婚できるボクはとてもラッキーだ」と言ってらっしゃると言う記事を読みました。

自分が「うんと優れた人」と言える人との人生ほど、素晴らしいものってないなぁと思う訳です。
社会にはたくさんいろんな人がいるけれど、自分が「この人にはかなわない」と思える、「うんと優れている」といわば完全降伏してしまえる相手と言うのはそういない訳です。

誰かに対して「かなわない」とか「自分よりすごく優れている」と言えるって、ずっとその人を通して自分は何かを吸収したり、学んでいけるわけですよね。
「自分より優れている」と思う人が自分を選んでくれていると言うことは、自分自身にとってもよい影響というか、自信になるとも思うんです。

きっと、そういう風に自分が思って選ぶ相手なら、偉そうにする訳もないはず。

もうひとつ、あんまり頑張りすぎなくなるんじゃないかなぁ。
だってかなわないものがあると知ることで、肩の力が抜けるから。
(釣り合わせようと思うと、必死に頑張るんでしょうが)

お互いがお互いをリスペクトしあう関係だからこそ、彼はこんな風に晴れやかに言っちゃうんだろうなぁと思いました。

友人でもパートナーでも夫婦であっても。
いつも高めあっていける、自分よりも優れた素晴らしい人と人生を歩めていると思えたら何より幸せなじゃないかって改めて思いました。

たどり着いた境地

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17歳の時から、出家したかった。
俗世間からはなれて、ただただ禅定を尽くして自己と対峙していきたかった。

そんな私がそれをやめた理由は、衆生である俗世間にいきる人の悩み苦しみがわからないのであれば、自己と対峙して悟りを得ようが意味がない、もっと世間を知らなくては。経験を積まなくてはと思ったからだった。

気がつけばその頃から、自己と対峙して高めていきたい自分と、誰かの役に立てる、社会がよくなるような存在になりたいと思っている自分を見つける。その当時はもしかしたら現実が辛くて、その世界に逃げ込みたかったのかもしれないけれど。

それから25年ぐらいの時間がたって。
出家をするよりももっと複雑な感情と痛みと喜びを感じた日々。

自我やエゴ、欲がなければ世俗社会で力強くいきていくことは難しいと悟った20代から、本当によく悩み、苦しんで来たと思う。

成長の遅い自分とありうべき姿とフィットしきれない社会の中で、あまり妥協することなく、自分の目指す物を不器用ながらによく追いかけてきたと思う。
理解する人は少なかったし、孤独でなかったと言うと嘘になる。

20代の後半から30代半ばまではいわゆる一般的な世俗社会に馴染めなくて、魂が孤独な時期だった。誰かと一緒にいるのに感じる淋しさはもうイヤだ、それなら一人の方がいい、と決めたのが30代後半だった。

その頃にあった出会いで、自分を捨てて生きることを選択してもつことになる。
それからもう何年だろう。【自分を捨てて生きる、エゴを捨てて生きる】と当初思い始めた時のそれは今振り返れば、「自分を捨てたつもりで、ただ孤独に生きる」ぐらいのものだった。
こんなのは誰のためにもならないただの「淋しい人プレイ」であると今ならよくわかる。

「自分を捨てたつもりで生きる」という虚に気がついてから、ずいぶん七転八倒しながら自分を捨てるということを考えてきた。それは仏教に縛られていたことに気がついてようやく、「カミサマノイウトオリ」というあり方を知る。

仏教にはたくさんのことを助けてもらってきたけれど、一番私が最後に苦しんだのは刹那と未来の関係だった。未来を期待しない、次の瞬間の死に取り付かれていたのかもしれない。
だから未来をも所有することなく手放したい衝動にいつも駆られていた。

この辺りの考察は、現世と言う三昧を味わい尽くすというテクストの中で経験として語りたかったのだけれど。大事においておき過ぎてまだ書けていない。

そんな中、自分の役割ということを考えていると、そこでエゴとの葛藤がでてくる。
役割を終えた後の自分を思うとエゴがでる。

自分の役割を熟知しているが故の手放しができるかどうかというところだったと思う。
頭がおかしくなるほど考えて、自分を追いつめて、罪悪感にも苛まれた。

肚をくくって受け入れる、というのはこっちサイドの話なので、楽なのだ。
自分の身を投げ出す。これが何より苦しい。
どうなるかわからない先に投げ出す。

自分を痛めつけるのと投げ出すのと、どちらが苦しいのか正直わからないほど苦しむのなら、もう苦しむのをやめようと思った。

私の人生はもう私のものであって私のものじゃない。
本当の意味での「カミサマノイウトオリ」ってこういうことなのかもしれないということだ。

自分という存在を神様に捧げるような感じかもしれない。
これを出家と言わずしてなんなのだろうと思うけれど。

私自身として挟持する、引けない何かは限りなく小さくなった。
でもそれ以外はもういい。

崖の上から飛び降りたらこんな気分なんだろうなという気持ちで今毎日を生きている。

言いようもない静けさと安らかさの中に自分があることによって、本来の自分をまた改めて見いだしている。

何度も、ありうべき自分の姿に至ったという錯覚に陥ることがこの数年あったけれど、そのたび「いやまだだった」と思い知らされることが起きる。

でももう崖から飛び降りた私に何が起きるというのか。
今はそんな気分でいる。

変化をどう定義づけるのか。

2013-10-01 17.18.50

最近、自分の中で「あぁ、変わったんだなぁ」ということがある。
私自身が生きて行くために一番悩み続けた問題だったし、ずっともう諦めていた問題についてだ。

私が持っていたその問題であれなんであれ、問題が解決するということは「状況が変わる」ということだ。

変化っていうのは問題が解決した時を指すのだろうと思っていたけれど、実は違うのかもしれない。

生まれてこのかたずっと抱えてきた問題を史上最短で解決できるような環境になった時はなんだかまだ夢見心地だったし、揺り返しも何回かあった。
この問題を解決した自分、という未知のものと暮らすようになった自分になかなか慣れなかったような気もする。

新しい家に連れて来られた猫のように、一角に陣取ってじっと様子を伺っている、そんな感じだったのかもしれない。

誰かがミルクボウルをおいてくれたら、近寄ったりにおいを嗅いだり。

だんだんと、大丈夫そうだ、となってくるとそのあたりを探検したりし始めて。
大きな音がするとピャッと飛び上がってもといたすみっこに逃げ込めるように。
それでも大丈夫だな、とかわかるようになる。

こういう移行期間をへて、猫はその家の猫になって行くんだろうと思う。

人間の変化もそんな感じで、はじめはおずおずと、そうしてようやくその環境に馴染んでくる。
そこではじめて周りの景色が変わったことに気付く。

それまでは馴染むことと言うか、いつでも元に戻れるように若干お尻を浮かしながら、慣れない椅子に座ってる感じなのだけれど、そろそろと力抜いても大丈夫かもって思い出す。力を抜いたところで、はじめて部屋の内装だとか、目の前におかれたカップのディテールなんかが目にいく。

私は今までいた場所にいないんだ。
だって見えるものも感じるものも違うもの。

それは最初に新しい家に連れて来られたりした時の瞬間からどれだけの時間を経ているのかはわからない。
でも、そこまで来てはじめて「変化」が完了したと言えるのだと思う。

見える景色が変わった結果、感じるものが変わるということこそが「変化」なのであって、ただポジションを移動しただけでは「変化」にならない。
それこそが新しい環境だし、新しい自分。そこから生まれる「新しいもの」こそが変化をした結果。なんだろうと思う。

そこまで定着させることが実は難しくて、移動だけしても変化しないこともあるんじゃないかと思う。それで変わったような気になる。
変化っていうのは、化け変わるんだから、やっぱりドラスティックなものであるはず。

自分がまさに変化した、そう感じたからこそこんな定義がだせるのかもしれない。

多次元の中で環境が変わるというのも魂や意識のレベルから変化してそれが現実見える世界にまで降りてきて馴染むまで、一体どれくらいの時間が実はかかっているのだろう。ドラスティックであればあるほど、移行期間は長いはずだとも思う。

でも時間なんていう概念も複雑だから、長いものを一瞬にする手段だって実はあるのだろうけれど。

移行するということ、馴染むということ。
新しく始まったことが、馴染んで当たり前になるのがすごくイヤだったけれど、そこが実は変化のゴールであったと言う結末。

焦らず、時間軸をものともせず、変化に対応していける自分でありたい。

問題修正とバックアップ

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ちょうど世間はワールドカップ開催国のブラジルがドイツに大敗しちゃった数時間後でもあります。

この結果は私には全く当たり前、としか言いようがない結末です。
数年前、1978年のアルゼンチン以来、ブラジルでの大会をと南アメリカの総意としてブラジルへの誘致を望んだはずだったのに、どうでしょう。

始まる直前になって「ワールドカップなんてやってる場合じゃない!」と国民は騒ぎだし、競技場は途中までしかできてないし、ペレは渋滞のせいで遅刻するし、6割以上の人が「興味ない」とかいっちゃう訳です。

そりゃぁ、ネイマールも怪我するし、7点も取られちゃいますよ。

開催国なのに、圧倒的に応援するパワーよりも負のパワーの方が大きかったっていうことなんだろうと思います。
サッカーって他のスポーツよりも不思議と「場」の雰囲気の勝ち負けを重視する気がしているのですが、点を入れるタイミングが少ないスポーツだからこそ、「アウェイ」とか「ホーム」の場が支配するものが多いのだろうとも思います。

こんな風に開催国がしらけちゃうなら「ホーム」の意味ってなんなんだろうって思っちゃいますが。苦笑

さて、ここからが今日のタイトルのお話です。

データベースにつながらなくって、ずっとわけのわからないエラーと数時間格闘していました。
訳のわからないものをずーっと調べながらやっているのは本当に苦行としか言いようもないものです。専門家じゃないのですから、「何がどうなってるのか」すらぼんやりとしか理解していないのですもの。
それを使いこなしている体ができるのはインターネットのおかげなんですけれどね。もちろんプロじゃないのでたいしたこともできないのですけれど。

それでも、エラーが起こるたびに「バックアップ」の重要性を思います。
一瞬で消えたサイトが復活するのは「バックアップ」のおかげですし、使えなくなった機能が元に戻るのも「バックアップ」があるからなんですよね。これで何度となく冷や汗が止まった経験があります。

人間だってそうなんだろうなぁって思います。近頃。
バックアップ先が家族なのか恋人なのか、神様なのかそれは人それぞれで違うのかもしれません。
それでも、「もともとのその人が記憶している自分」みたいなものを自分の中にもう一度引き込んでみるということ、もちろん自分をよく理解してくれていて、自分も安心して自分をだせる相手なのだろうと思いますが。

そういうことがあれば、とっ散らかった自分や、行き先に迷う自分が何をしていいかわからないときに「私ってそうだったよね」って言うことを思い出させてくれるんだろうと思います。

「あなたってこうなんだから」って言ってくれるのと同時にきっとその人は「だから大丈夫よ」っていうことを言ってくれると思うんです。そういう安心感っていうのかなぁ。どんな荒波のような苦労を日々受けていても、自分のありのままを知っている人がいるだけでずいぶんと楽になると言うか、原点に戻れるはずです。

そういう相手と密にコミュニケーションをしておくことは、「自分のバックアップ」に他ならないんじゃないかなぁと思う訳です。

いくら相手が自分を知っていてもそのバックアップが古いと、いろいろずれるから。これも、アップデートの一環で、古いデータベースなんてもはや「自分」ですらないのだから。

そういう作業を続けて行くことが、結局ぶれない自分を作って行くことに他ならないんじゃないかなぁって思ったりしています。

日記なんかもオールドファッションだけれど確実な自分のデータベースだなと毎日つけながら思っています。