足を洗う〜パートナーシップ〜

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写真はウェブからお借りしました。

時代劇の映画を観ていて、武士のご主人が戻ると土間で奥さんが「お戻りなさいませ」と足を洗う姿が美しいなと思っていた。ローマを舞台にしたヨーロッパの時代劇でも、戦士である主人が戻ると妻が彼の足を洗っているシーンがあった。

大切な人の足を洗う、というのは敬意を表すための美しく正しい行為だなと深く感じた。

このブログでも何度も書いているように、100の言葉を紡ぐよりひとつの行動によって示すものに価値を見いだせる同じ価値観の人でないと理解しづらいかもしれない。

今の時代、女の人も強くなって、外に働きに出ている昨今、「そんなのやってられますかいな」という風潮も十分理解している。だけれど、自らが愛し尊敬するパートナーにそんな想いが芽生えないの?と思う。

「足を洗う」とは語源由来辞典によると
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聖書の中にも実は足を洗う話がある。
「ヨハネによる福音書」 13章1節~11節、最後の晩餐の際、イエスが弟子達の足を洗う記述がある。詳細はこちら

昔の道路状況と靴では出先から戻ったらまずは汚れた足を洗うことでようやく「外」から「内」への切り替えをしただろうし、不自由な履物を脱いで足を洗うことで出先での疲れも取ったのだろうと思う。

また、スピリチュアルでは邪気は足裏から出ると考えられている。外で触れて来たであろうものや自らの内部に生じた「邪」なものを水で洗い清めると言う意図があったかどうかは分からない。だけれど、それらを内部に持ち込まないことに結果的に一役買っていただろう。

「足」というのは上下でいうと下、穢れやすい部分と考えられている表現やエピソードはここに紹介しなくても日常的に使っていると思う。

足を洗うということは聖書の中でイエスが言うように、清められる行為、そのものと言っていいのだろうと思う。

話を最初に戻そう。
映画の中で妻が夫の足を洗うという行為に無事の帰宅への安堵と喜びを感じながら、清めることに純粋な愛情と感謝のひとつの表現として私は美しさを感じたに他ならない。

宗教においても象徴的に「足を洗う」という所作が使われているけれど、「家」こそが「神殿」だと思えば同じコンテクストなのだ。だから常に整然と浄化されていないといけない。

「マダムはお花が好きですね」とお買い物から戻ると、周りのローカルの人達がいう(いくらで買ったかも聞かれるけれど、適正な価格で買っているらしい)。清浄で整った場所でないとお花も飾れない。家が神殿だと考えれば、神殿には花を供え、いつも良い気を放つよう心がけられたらとおもうのである。(お花がすぐ枯れるのはその場所に問題があると言うこと。センサーの役目も果たしている)

今の世の中、そんな風にパートナーの足を洗う人がどれだけいるのかわからない。でもたまには感謝の気持ちを込めて背中を流してあげ、心を込めて洋服を洗ってあげることだって、「足を洗う」という感謝に通じるのではないかしらと思う。

近頃、「尊敬」ということを良く考えている。愛情と尊敬。
どちらもパートナーシップには不可欠だと思う。
自分のパートナーに「あなたは素晴らしい」と心の底から言えるパートナーシップを築けていない人達の多いことにふと気がつかされる記事を読んだとき、殺伐とした気持ちになった。「歯磨き粉を歯ブラシにつけてあげる」位のことで、「女は家政婦か」と言われてしまったら、「足を洗う」なんて「男尊女卑」も良いところなんだろうと思う。

「おかげさま」という気持ちを表現してもらおうが、「自分の手柄」にならないことが面白くない人が多いのかもしれない。

自分の手柄がパートナーと彼の成功そのものである、と思えばその気持ちは満たされるのか、と考えるけれどそれもどうなんだろうと私なんかは思ってしまう。

結局、人間は誰かに認められたくて、損得勘定をしてしまうが故に、自分が信じた人にただただ尽くし抜くのは幻想なのかしらん。

結局、尽くし抜くということに対して「損得」ではないにしても何かしらの充足をパートナーによって与えられる、そばにいることで感じられれば、それほど難しくないと思う。(大前提として、お互い深く愛し合っているということがあるだろうけれど)

世界の東西いずれにも、「(主人の)足を洗う」という行為があったということは普遍的な意味合いをもたせても良い気がする。だけれど、時代が変わり、社会が変わると何か根本的な本質を見失い、自らの性差は特長ではなく差別の対象となってしまった。

ただ一人、自分だけのことをしっかりとすることはさほど難しいことではない。それもそれなりに楽しい。ただ、1はいつまで経っても1で、2にも3にもなりはしない。その虚しさを知っている人(一対)だけが、1+1の以上の何かにたどり着くべく淡々と歩めるのかもしれない。

そういう時間を意識的に積み重ねた日常だけが本人達も想像だにしなかったような境地へ足を踏み入れさせる。

未来への生き方と過去

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科学技術がますます進歩し、国の境がなくなっていく。

国の境をまた取り戻そうという動きやたくさんつけた機能が「いらない」となってシンプルさが喜ばれていたりする。

人間や社会はいつだって「より良い状態」という意味での「進化=化けることで進み続けること」を求めている。

人間が地球の上でいろんな仕組みを作り、ものを作りして来た連綿時間の中でこれほど「煮詰まっている」という感じがするのは今だけなのだろうか、新しいパラダイムの模索の中でルネッサンスなんかは生まれて来て大きな風潮へと変化をしたはずなのに、古いものを「焼き直し」としてしか見いだせないのはなぜなのだろう。要するに、なぜ「美しく」ないのか。

パートナーが古い書画や車のサイトを眺めては「今はもうこんなの作れない」と嘆息しながら言う。
当時の作り手の息づかい、卓越した技術、手仕事を彼は常に賞讃し、彼らとともに生きた人のようにそのスタイルと有り様を理解する。

確かに、それらには「美しさ」と「重厚さ」はあっても「軽薄さ」みたいなものはない。

彼らも今の職人や作り手との想いにちがいはないはずだ。だけれど何か決定的なものが違っているような気がする。

若い頃、生まれてくる時代が遅すぎた、と感じることがよくあった私だけれど、何が「早すぎたり、遅すぎた」と感じさせていたのだろうか。

人の営みや作り出すものの「行程」には大きな差はない。それは先進国であれ発展途上国であれ、時代であれ程度の差なのだ。では何が決定的に違うのかというと、「ありうべき世界」というものをもっているのかどうか、なのではないかと思う。

「世界は美しくあるべきだ」という絶対的に揺るがない何か。それは「ユーザーの利便性」だとか「マーケティング」とか「コスト」を絶対的に凌駕するものであるはずで、そういう「グランドプラン」がないと結局は「手先」の技術でしかなくなるのではなかろうかという結論に達する。

国の有り様だって同じことが言える。こうあるべきだ、というグランドプランを提示する北の大国のリーダーが世界中から羨望と注目を浴びているのは、今多くの国が国民のニーズやウォンツ、海外からのそれらに汲汲と振り回されているからこそであろう。

日々の生活を大切に生きること、小さなことに感謝することの大切さと同じ位、大局でのありうべき姿、自分の立ち位置を見つめなければ日常はただの「毎日」となる。

私が十代のとき、留学した国から去る直前、「彼らは生まれて死ぬまでこうやって毎日、一年を暮らして年老いて死んでいくのだ」ということに気がついた。私はそんな風にして生きていくことは出来ない。彼らと自分のちがいを決定的に感じ、別離を決めた瞬間だった。

「進化」という「美」を「グランドプラン」としてもち続けていることが日常の手先指先からこぼれ落ちる技術となりうるのだということを古いものは教えてくれる。

「インスタント」で「手先器用」な世の中にあって、古いものを見直すということは実は過去の再評価を通じて未来すなわち、「現在」の「グランドプラン=ありうべき世界」を模索しているということになる。

美しさというのは何も美醜だけを言うのではなく、その姿勢を指す。
常に「ありうべき世界」を模索してそれを日常ににじませる、そんな日々を送り続けていきたい。
それが未来へ大きな寄与となる一端になると確信しながら。

ゆく年来る年 〜収束から快へ〜

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2014年もいよいよ残すところあと数日となりました。

今年一年をいろいろ振り返るこの季節、終わらなかったこと、変化するべくしてはじまったこと、すべてが自然に穏やかに流れつつあるように思います。

この一年は去年にはじまった変化を自分の中に馴染ませて落ち着かせていく、そんなような時間を過ごしたような気がします。「ありうべき」にとらわれず、自分が自分であることや目を瞑っていたことに目を開いてもかわらず穏やかに、自分の求める物や美しいと思う価値観を求めて深め続けられたとも思います。

本当に大切なものはそうたくさんなくて、私はそれを手に入れているのだというところにいつも最後は落ち着ける様になった、とも表現してよいのかもしれません。

もう、不必要に苦しむことも、悲しむことも、辛くなることもなく、あるがまま受け入れて自分は自分の菩薩道を一歩一歩歩み続けること。

愛を示す、褒める、感謝を伝えるという私の大切にしていること、カミサマノイウトオリ、カミサマノナサルヨウニと思いながら生きることがよりしやすい環境を目の前にした年末に、来年の抱負として「快」という字をあげました。

「快」という漢字には
しこりがとれて気持ちよい。さっぱりする。また、その感じ。病気のもとがとれてさっぱりする。病気がよくなって気持ちがよい。 心につかえるものがなくなり、これでさっぱりしたと思う。 もたもたしない。速度がはやい。刃がよくきれるさま。
というのがあるそうです。リンク

どの意味をとっても、今からの私にぴったり添っている感じがして。

自分の心の奥底が継続して感じ続けてられるのは「心地よい」という感覚だという一節からインスピレーションを受けてこの漢字を選びました。

この一年、読者の皆様にはたくさんの気付きやサポートをいろいろな形で頂戴できたこと、改めてこの場で感謝申し上げます。

来年一年が皆様とご家族、大切な愛する方一人一人にとっても健やかで愛に満ちたものであります様にと心よりお祈り申し上げて今年最後のブログ更新とさせていただきます。

来年も日々の気付きを大事にしつつ、思考を昇華させる場としてこのブログを通した対話を続けていこうと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

名前を呼ぶという言霊の送り方

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Facebookのタイムラインにでていた記事に絡めた気付きの話を。

まずはこの記事を。〜引用ここから〜
ポーラ化成工業は9月30日、普段、「ママ」「△△ちゃんのお母さん」などファーストネーム(名前)で呼ばれていない女性に対して、初対面の人間がファーストネームで呼びかけたところ、愛情ホルモンと呼ばれる「オキシトシン」が増加すること、ならびにストレスホルモンと呼ばれる「コルチゾール」が減少することを見出したと発表した。

同成果の詳細は、2014年12月17日から山口県下関市で開催される「ヒューマンコミュニケーショングループ(HCG)シンポジウム2014」にて発表される予定だという。

女性は名前で呼ばれることで愛情ホルモンの「オキシトシン」の分泌が増えるとのことです。幸せを感じるホルモンが「オキシトシン」とのことです。「オキシトシン」はいろんなカタチで出てくるようです。ふれあったり、スキンシップでも出てきます。いい香りを嗅いだり、体を温めたりしてもでてきます。好きな人から抱きしめられると幸せになるということのようです。そして今回、名前を呼びかけても「オキシトシン」が分泌される発表がでてきました。

こちらから記事の一部お借りしました。
〜引用ここまで〜

私は教えていると名前に先生を付けて呼んでもらいますし、この国ではニックネーム(ねこ)と呼ばれていますが、不思議と私のことを名前だけで呼ぶ人がこの世にほとんどおりませんでした。亡くなった母ぐらいでしょうか。

パートナーがはじめて名前を呼んでくれたときに、なんだか身体の力が抜けるような幸福感を照れくささと一緒に感じたのを今でもリアルに覚えています。ふくれている時に名前を呼んでくれさえすれば機嫌が直るぐらい。笑 

自分を一人の人間として扱ってくれていると感じるとかそういう説明を読んだこともありましたが、今回の記事でかかれている「スキンシップ」や「好きな人に抱きしめられる」ことと同じホルモンが分泌されるという内容が腑に落ちました。

私が持っている「名前を呼ばれる」ことで感じる幸福感はこの調査にあるように「脳」ではなくて「魂」とか「皮膚感覚」での幸福感だからです。ただ、名前を呼ばれるだけなのに、その幸福感は色あせることがありません。

「言霊」として自分の「名前」を考えたとき、自分そのものを音にしたものが「名前」と考えられます。たくさんの思い入れを経て自らに馴染んで来た自分という存在そのもの=「名前」が大切な人の声という「音」で自分の「魂」に運ばれてくるのです。

まさしくそれは「好きな人の声で魂を包まれる」ような心持ちになることは想像に難くなく、相手が自分を思って名前を呼んでくれればくれる程、「名前」=「言霊」のパワーが愛に満ちたものなのだということが改めてわかりました。

ニックネームであれ、ペンネームであれ、多少なりとも自らを映す鏡ではあります。少なくとも私は自分の名前の好悪を超えて、自分がこの名前で生きていくのがよい、愛すべき名前であり、何より人生にふさわしい名前なのだと思えるようになりました。それまでは名前に執着がなく、むしろ名前は適当に変えてしまえばいい、と思っていた私の大きな変化でした。
そのきっかけのひとつはやはり名前を呼ばれて照れくさい程の幸福感を感じたことに端を発するのだと思います。
私は他の何でもない、この名前の波動と魂が一致している、そう気付かされたのです。

言霊と波動、名前の関係はまさしく他人からの愛や好意を自分の中にしみ込ませていく作業に似ています。私が一番苦手なもののひとつですが(笑)名前を呼ばれるということを通して、少しずつ慣れていっているのかもしれません。同時に、大切な人の名前をこれからも愛と尊敬を込めて呼んでいくつもりです。

語り得るもの。

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あっという間にもう11月に入ってしまった。

先月あたりから、一年かけての変化に加えて新たに関心を持って勉強している領域・思考のスピードや気付きがあいまって言語化するのが追いつかない。

日々のパーツではその気付きの深さではわからないし、その気付きだけ抽出しても普段このようなことを考えていない人にとっては『何のことだろう』ということにしかならない。ある程度誰かに読んでもらうことを想定するには『熟成』という『こなし』がますます必要になって、残しておきたいのに残しておけないという悩ましい状況が続いている。

日々の各論に意味がない訳ではないけれど、包括的に連動して理解をしないと自分を自分足らしめる『軸』というか『芯』にまでたどり着かない。何でもタイムラインやハウツーものや誰かのシェアした情報にコメントを載せているだけでは仕方がない。それだって誰かのコピーアンドペーストなのだから。

タイムラインをみていると、シェアーする人の知識のように、書き込み主の知識のように考えているそれらの知識だって、所詮その多くはどこかからのコピーアンドペーストでその人がいろんな想いや体験をして吐き出したものではない。

まぁ、そういうのが好きな人たちはそれでおててつないで同じ魂なのだろうからそれも由だろう。
そういう仲間に入れなかった自分を『なぜ』と思い続けていたけれど今は入れなかった理由もよく理解していて、これでよかったと思っている。

だから、私のように淡々と考え続けることや違いを持っていくことは大変だけれど、それなりに意味はあるし、多少なりとも私の書くものが読む人の心の中の何かに寄り添えればいいなとおもっている。

だからといって、『あなたの書いていることがわからない』とのたまう思考停止な方にわかるように書くつもりも、言葉を教えているときのように『あなたもすごいね、素晴らしい、愛だね』というつもりもない。だって人生の思考を続けるのは岩山を登るような孤独さがある。
そこに必要なのは小さな明かりやほっと安らぐ温かなコーヒーだったりする。そこにふかふかのベッドは不釣り合いなのだ。

魂の修行をしている同士、お互い頑張りましょうという気持ちでその歩みを進める、気付きをもらうことと、歩みを助けられることとはちがうと思っている。言葉を教えていたときもこういう気持ちが根底にあったから、教えられる側は窮屈に厳しく感じていたのだろうとも思うけれど。言葉の学習にしろ魂を磨くことにしろ、歩みは誰にも助けられないのだ。一歩一歩、自分で決めて進んでいくしかない。

言葉を教え始めて10年程で独自のメソッドを作り上げたけれど、最終的な目標はここだろうと思う。メソッドとはいかなくても、メソッド的な俯瞰した概念を提供できればと思う。私のメソッドは『わかる人にはすごくわかる』方法論でかつ合理的に愛に満ちあふれたものだった。考える習慣を持っている人なら納得できるものになっていたと思う。

私のメソッドでは理解できなくても『その通り』やればできるのですごさがわからない。身に付いているのだけれど、それが『大変さ』を経ないために実感がわかなくて評価されなかった。(マイナー言語だから実践の場が限られていることもデメリットのひとつだった)

だから、今考え続けていることが結果、何かまとめられたとしてもそういう結果だけは招きたくないとも思っている。

わかる人にだけ、しっかりと伝えるべきことを伝えられるように。そのために隗より始めよ、粛々と修練をするに尽きるのだろうと思っています。『行動だけがすべての証』という、私の大切な信条の元に。

自分が変わることで結果的に巻き起こる変化とその覚悟。

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自分の身近な人に堪え難い何かがあるとしよう。又は本人が堪え難い問題があるとしよう。

自分は相手ではないので、その堪え難い何か(習慣かもしれないし癖かもしれない)や問題には直接手出しをできない。
いくら自分に大切な存在でも相手は自分ではない。

変えられない。

これが現実だ。

それを心配してみていたり、イライラしてストレスをためたり、いつかよくなるだろうと楽観するのも一手だと思う。
だがその人が本当に大切なら。
自分は放っておけるだろうか。

ただ相手を非難してみたり、心配しすぎて鬱陶しがられるのもなんだか違う気がする。
すべて自分に持って来たときに、その人の痛み苦しみや悩み、その原因を自分のことのように思えるのか。
「そんなあなたが悪いの」「仕方ないわよ」

と思うなら、私の思う大切とは定義が違うんだろうと思う。
癖であれ状況であれそれは表層であって、それがおこることを余儀なくされた原因が何かしらあるはず。

それを心から感じて、取り除けるなら何でもしてあげたいと思うかどうかだと思う。
人と関わるというのはそういう覚悟があっていいはずだから。

表層ではなく根源を取り去るにはその根源にある心の問題にフォーカスしなくてはいけない。自分の心を見るように相手の心を見ないときっとわからない。その根源がすぐにわかるとも限らない。

その根源が孤独や不信、なんであったとしても行動を持って愛を示すことで相手は変わっていく。

例えばいつも優しい言葉で挨拶を欠かさない。感謝の言葉をたくさん紡いで届ける。褒める。なんだっていい。それを常に心を込めて滅私で相手にし続ける。褒めるという言葉や波動は壊れたDNAを修復する効果があるというロシアの研究があると先日読んだ。だから褒めるのもいい。それで傷ついたものが癒されていくこともある。

いやがられることも、不審がられることも覚悟で、相手がどんなに大切で素晴らしくて愛おしくて、存在に感謝しているかを伝える。病気なんかの好転反応と同じで、いやがられるときもあるかもしれないけれど、いつか何故自分がこうしているかをわかってくれる日を信じて、自分の大切な人にただひたすら尽くす。

いつこれが終わるかわからない。きっと傷の深さによるのだろうと思う。
それだけ長くかかるっていうことは、本人がそれだけ長い間苦しんで来たことの証でもある。
これは私も体験して来たことだからよくわかる。

だけれど、乾いたスポンジに徐々に水がしみ込んでいくように、行動と言葉を通じてかけて来た癒しの力は、あなたの大切な人の辛さを必ずや変えてくれる。それまで根気良く続けられる覚悟があるか、それに尽きる。

相手を変えるのではなく、自分が相手にできる限りの想いと愛を行動で自分を変えていけるかどうか。それにかかっている。
その想いが通じた日、当初の自分の願いであった相手の苦しみが取り除かれるんだろうと思う。

その過程こそが、問題の解決よりももっとかけがいのないものになるということは体験者でないとわからないのかもしれない。ただ、中途半端で生半可にやればもっと悪い結果を招きかねない。

自分に愛があるのか、覚悟があるのか。
問われるのも、変わるのも自分。
あなたとあなたの大切な人の苦しみが少しでも軽減しますように。

気付きと愛、褒めることと褒められること。

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毎日考えて深めていくこと。それは魂を磨きに磨き、曇らないようにしていくことでもあって。
間違いに気付き、ただし、許す。よいところを認め、のばし、一層愛する。その連続。

愛とはなんなのだろう。
溢れ来るやむにやまれぬ暖かい何かが愛なのではないか、と言うのはあまりにもイメージ先行型というか感じている感覚や映像を言葉にしているにすぎないのかもしれないけれど。

愛と言うのは究極に暖かく美しく強い波動なんだろうとも思う。
その溢れる源をいつも感じているし、思っている。

自分がそれを回りに波及させたり届けるにはいろんな方法があると思う。
私は教えることを自分の仕事とし始めてから、「褒める」「いいところを見つける」という才能に長けていることに気がついた。褒めて伸びる人と伸びない人とがいる。
その話はあとにして、私が先日深く感じ入ったあるブログのエントリーの引用をまずはご一読いただきたい。

水晶の家れいさんのブログから一部引用させていただきます。引用元はこちらです。

☆褒められれば心が喜び感情が高ぶります。脳が生きる意欲の「ドーパミン」(快感増幅)を分泌させます。
エンドルフィンといって脳内モルヒネも分泌されて精神的ストレスの解消にも役立ちます。
免疫細胞の防御反応が強化されますから健康には最適なわけです。少しの心がけも自分への躾と考えましょう。自分を褒めたり評価してあげるのは当初恥ずかしかったり抵抗もあるものですが、自然と違和感なく善なる心が発信できるようになるものです。素直な心がそのとき役に立つのです。

☆この話の大切な部分は、これからです。何故意識の快である「褒める」ことが幸福や平安、調和をもたらすのでしょうか。それ実に論理的に出来ています。つまり人間の進化を司る愛の表現のワンシーンだからです。
意識の世界は実学であり人間本源の生命の本質を知る上で新時代には避けて通れないものです。

☆へりくだることが美徳と勘違いしている場合があります。「いえいえ、私なんか…」とはよく耳にする謙遜言葉ですが深層意識からすれば理解不能かもしれません。謙遜はのぼせ上った人には調整としていいのでしょうが、正しく社会活動をしている人がいて周りから評価されているとすればそれはそれで「有難うございます。」で返礼を返せば内外に良い影響が放散します。くれぐれも卑下し過ぎたりへりくだりすぎは深層意識には曖昧ととられますから注意しましょう。正しく評価判断して感謝の念を伝えましょう。

☆自分の善きことを評価し褒めることは意識に明確な快のサインを送ります。瞬時にそれは処理され次なる現象化の礎になります。
自分の善きことも必ず正負同等の価値を含むものであります。それを瞬時に看過し、創造の法則に則ったもので自然で無理のない建設的進歩的事柄であれば次なるイメージが新たに脳裏に浮かぶなり偶然としか思えないような現象が続きます。
評価され褒められ感謝される事柄は、創造の掟に叶ったものであることが望まれます。これが曖昧だと不自然な社会が出来上がります。

☆パートナー・夫婦同士も何かにつけて良いことは褒めてまずいことや悪習は互いに除いてゆきましょう。子供は親の背中を見て育ちます。感情で指導することのないようにしましょう。そして良いことはきっちりと目を見て褒めてあげましょう。

・・・・・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・

心が喜ぶ=ドーパミンが出る=エンドルフィンも出る=精神ストレスが解消=免疫細胞の防御反応が強化=心身の健康にいい。
褒めること=幸福や平安、調和=人間の進化を司る愛の表現のワンシーン
ということが明確に書かれています。

また一方で、「褒めるとは、感謝行であり自分に対する評価の現れです。また、それは鏡の法則でもあり、相手に見る美や徳や感謝は取りも直さず自分の優れた美徳の投影」とも書かれています。

私は仕事柄、多くの人を褒めて来たつもりでしたが、褒めても信じない人、褒めたところにあぐらをかいて何もしなくなる人、褒められたことを素直に感謝して受け入れる人と大きくわけて3種のパターンにわかれました。

「褒めて伸ばす」というのはこの3番目の人にだけ当てはまる手法なのかもしれないと思いましたが、褒め方が今からすると足りなかったのかもしれません。自分にないものを「素晴らしい」と素直に認めて褒めること「よくやったね」と言えることはやはり人間関係の基本です。

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褒めるという単語を聞くと、なぜか高倉健さんの「あなたに褒められたくて」 
というエッセイのタイトルが頭に浮かびます。

あの高倉健でさえ、誰かに褒められたいと願う。
褒められるというのは部分的であれ完全な肯定であり、賞賛です。
その積み重ねが自信になり、感謝になり、ますますよい芝居をしようと思うのか、内容を読んでいないので想像にしか過ぎませんが、このタイトルにはそれだけの想像力をかき立てる人間の素直な想いが出ている気がします。

みんなでなくてもいい、ただあなたが褒めてさえくれればいい。
人間というのはかってなものですから、褒めてくれる相手すら、実際は選んでいるのかもしれません。

私はあまり褒められるようなできた人間ではなかったので、このタイトルには何となく思い入れがあるのもそのせいかもしれません。褒められたいという一心で、なすべきことをなす。それだって立派な目的なのだから。

だから、精一杯、言葉と身体を駆使して褒めるということが必要なんだと思います。
褒めるというのは人生という長いレースの中のドリンクの補給や食べ物の補給だったり、道ばたでの声援のようなもので、その褒められるということを通してまたエネルギーをチャージし、ゴールに向かって進んでいく。

褒めるという行為を通じて人は自分を振り返り、人の魂にエネルギーを注いでいるようで実は自分の魂を磨いているのだと思います。その言葉や態度に人は癒されて、自信をつけ、一人ではないと安心して進んでゆけるのだと思います。

褒めることも褒められることも天秤にかけず、ひたすら自分と相手の美点に気付き、それをのばしていく。
それが魂を磨くという行為=愛なんだろうと腑に落ちました。

言葉の形作るもの、視界が変わる時。

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「あんたはかわいいなぁ」と言われて育つ子と、「お前は出し殻やな」と言われて育つ子だったら圧倒的に前者の方が素直に顔立ちももっとかわいらしく育つだろうと言うのは周知の事実かもしれない。

毎日起きたら、「おはよう」と言って、帰ってきたら「ただいま」「おかえり」って言うやり取りが作り出すものって言うのは一体なんだろう。

一人暮らしが長いと、独り言が増えるというけれど、もっと長くなるといつの間にか私は言わなくなった。誰かが同じ空間にいる想定が自分の中になくなったからだろうと思う。

言葉って言うのは環境を創り出すものなんだろうなと思う。

独り言は言わなくなっても、いってきますとただいまといただきます(時々さぼる)は言う。
それは対象が人ではなくて住んでいる空間だったり、神様だったりするからだ。

愛してます、とか、ステキだね、とか格好いいとか、すごいねって言うことは単純に言葉を交わす、言葉をかける以上に意味がある。それらは「蓄積していく」のだ。

あえて書かないけれど、その逆の言葉だってそう。
言葉の威力は一発の破壊力はともかく、この「蓄積していく力」に人間関係では本領が発揮されるのではないかと思う。

カエサルが言った言葉で印象深い言葉がある「人は見たいものしか見ない」、と言う言葉だ。

相手が自分にとってステキな存在でいること、それが自分にとって誇らしい存在だと言うことは当然自分にとって「見たいもの」である。その「見たいもの」を創り出すのは自分の相手にかける言葉もその要素の一つなのだろうとおもう。

まさに仏教用語でいうところの「相即不離」(意味:関係が非常に密接で切り離せないこと。区別がつかないほど密接な関係のこと。)なのだ。

たとえいくら感謝をしていても「一緒にいると疲れるよね」とか言ってしまうと、「疲れる人(モノ、場所)」にしか見えなくなってくる。

言葉と言うのは言った瞬間、消えてなくなるけれど、「言葉にする」と言うのは行動なのだ。

相手を愛しいと見るためには愛しいと感じている言葉で、心を込めて。
相手が自分でも同じことが言える。

私は自分にずいぶん厳しい言葉ばかりかけてきたけれど、最近、「あなた辛抱強いねぇ」とか「よくいろんなことが見えてるね」と評価してみる。そうできるのも私にずっと思いやりの詰まった言葉をかけてくれる人がいて、私の中にしっかりと蓄積してきたからこそ、の変化だと感じる。

その蓄積のおかげで、私は次第に迷いがなくなってきたように思う。

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お写真はこちらから

簡単な実験で「ありがとう」とか「愛している」と言い続けた水や植物と、「バカ」とか「嫌い」とか言った水や植物だったら創り出す結晶が違ったり、腐食の度合いが違ったりすると言う実験を見たことがあると思う。

水に小石を投げたときに広がる波動のように、その言葉がその空間や相手に波及し、その空間や相手に影響を与え続けると考えるとその大切さを一層強く意識しなくてはと思う。

小さく起こった波が起こす影響はリアルタイムではなく、波動がどんどんと広がるに連れて離れた先にある船を揺るがす動きになるような感じで物事って言うのは変わっていくのだろうかという仮説を今立てている。

視界が変わるのは船が揺れた時。
その結果が分かった時、どの波が何を起こしたのかを私は知ることができるのかもしれない。

(とはいえ、視界が変わることこそが目的なのだからどの波であれ構わないと言えばかなわないのだけれど。)

鏡のような存在に

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最近のスモールビジネスなんかは特にブログが広告みたいな感じになっていることもあって、「語る」のが当たり前になっている。
世間のこと、政治のこと、自分のこと、陰謀論などなど。

「あれを使ってはいけない」「これはこんなに悪意に満ちている」「あなたこんな風に考えてませんか」
世の中なんて今までもそういうものだったけれど、書籍から媒体がウェブに移行するとそれを語る人たちがどっと増えたんだろうと思う。

このブログも人に語ると言うよりは自分が気がついたことを「書き残したい」と言う衝動に駆られて、人様にも見られる文章で残しているに過ぎない。日記何かだとやはり「前提条件」が多く入りすぎて、主観的すぎてよくない。

それはともかく、Facebookのタイムラインなんかをみていても、すごいパワーだなと感じる。
周りに伝えなくては、教えなくては、これは悪なんだ。みんな知らないんだ。だから教えてあげる。

何かもっといい手はないのだろうかといつも思う。
日本の人はみんな商売に結びつける勤勉さももってるから余計なんだか頑張ってる感が出るんだろう。

私は自分の考えが世の中をよくすると思っても、人の役に立つにしても、あんまり誰かにダメだししたり、「教えてあげる」みたいな感じは苦手だし、無理してやっても続かない。教えると言う仕事に就いていても「たまたま自分が先にできるようになっただけ」と思っているからかもしれない。

何をテーマにしていようとダメ出し、啓蒙してるのって、結局論調で同じグループにカテゴライズされている気がする。主張が違ってもにたような組織に見えるとか、あるでしょう。あれは方法論が同じだから何だと思う。

ダメ出しっていうのは現状分析と未来の展望がセットになってされるものだと思うし、体制などの批判にしても対案がなければ意味がない。

結局は自分にそんな人をとやかく批判分析したり、啓蒙しようなんて精神的なパワーも何もない訳なんですが。
かといって「愛してます」とか「ありがとうございます」のオンパレードも自分にはできない。

それでどうなのかっていうと「行動だけがすべての結果に帰結する」という私のいつものロジックに到達する訳です。
この大きなウェブの世界で起こし続ける行動が、いつかその波動が何か変化を起こすために自分が良しとすることをし続け、それを発信する。

自分の思う人間のありうべき姿、社会、人間関係。それを実践することからしか波動はあがっていかないし、伝わっていかない。
私は自分を高めていくことに一生懸命すぎて誰かにその波動が伝わることを拒絶していた嫌いがありますが(まだある)、これからはもう少し波動が伝わっていくようにするのを妨げないでいようとおもいます。

自分がとても心地よく幸せにいるためのいき方は人それぞれだけれど、同じ価値観の人にそれが広がり、気付きを得あうのも悪くないんだと。見つめて見守るときと、相手の姿を鏡に映すその鏡となる時。そんな鏡の様な存在になればいいと最近思っています。

きれいに磨いて曇らせないように。
それが自分にとっての精進でもあるとも感じます。

自分がただあること、恥ずかしくない姿で。それが基本。

誰かといるということ。

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孤独だといろいろわかっていいよ。みたいな記事を見たときに、一理あるけどなんだかむずがゆい感じがした。

ずっと長い間私は「誰かといるのに孤独」というのを感じてきた。
残酷な淋しさなんだと思う。

一人で長くいるようになると、誰かといるのがおっくうになる。

自分でやった方が早いし楽だし確実だし、がっかりしない。

独立した人間っていうのはそう言うものなのだろうと思う。
わざわざそのメリットを書き出すまでもないぐらいのことなのだ。

そんな人間が誰かといるという選択をするということはよっぽど「その誰か」といることが一人でいるより時間よりも素晴らしいということなのだと思う。

1983年に上映された、「愛と追憶の日々」はシャーリー・マクレーンとジャック・ニコルソンの年を取った二人の恋が一つテーマとして描かれている。

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この物語の中で、恋愛が燃え上がって落ち着きを見せ始める頃、ジャック・ニコルソン演じるギャレットは、彼女に別れを告げる。「二人でいる時間」があまりにも素晴らしすぎたことが、失う不安を感じさせた結果、彼は別れを切り出したのだろうと思う。

あまりにも幸せすぎると、もう昔の「孤独」だった自分に戻れない。
ギャレットはそれが怖かったんだろうと思う。
エマはその気持ちがわかるからこそ、あえて彼を追わない。
彼女の中にも同じ気持ちがあるからこそ、追えなかったのかもしれない。

孤独を深く知るものが誰かといることほど、覚悟が必要なことはない。

白州次郎は正子に彼女にこういう一節をしたためている。

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You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.

寂しさとかありがちな感情を乗り越えた後に孤独の中に得た平安を捨てて、誰かといるということはその相手が自分にとってこういう存在なんだと思う。

一人では、他の誰かとでは決して行けない領域へ行ける相手。
心身が安らぐからこそ、インスピレーションもアイディアも泉のように涌き出る。
お互いの思考や環境を最適化しあえるバックグラウンドを持ち合わせている。

時間を経て共にいることが習慣や日常に埋没するものではなく、よい陶器などのように使い込まれてより馴染んだものになっていく。

美しく年を取っていける間柄であるということ。
それは男と女であるということでもあるのかもしれない。

誰かといるということが自分という個人を際立たせ、更なる能力を引き出し、自分一人の時間を一層プレシャスにし、一人の時間に得た気付きをまた共有したいと思える相手。

そういう人といるということが孤独を超えて、誰かといるということなのではないかと思う。
自分と対峙し続け、孤独と語り尽くした者のみが得られる、パートナーシップ。