持たないことと使うこと

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できるだけものを持たないという話を自分の中でまとめて間もないのに、毎年のようにまた変わりなく、スケジュール帳と日記帳を探す時期がやってきた。

偶然、買い求めに行ったら毎年使うものが揃っていなくてふと、考えた。
「そういえば毎年書いたものが束になっているよな」と。

小学4年生の時から日記と言えるかどうかわからないものを書き続けていて、もう数十年分は処分して、留学時代の数冊と近年のものだけ残していたのだけれど、留学時代のそれらは先日の終活で処分してしまった。

せっかく処分したのに、また私ってば捨てるべきものを作るのか。
という気持ちが頭をもたげる。

社会が一人一台コンピューターや、スマートフォンの時代の始まりの頃から「すべてをデータ化する」というミッションがIT業界の中に前提となっているのは誰もが意識してようともしていなくとも公然の事実なのだろうと思う。「テレビのチャンネルを変えて」「エアコンの温度下げて」みたいな今まではデータとしての価値すら見出せないような瑣末なことですら、GoogleのAIスピーカーのGoogle home などにかかってしまえば、結果的にビッグデータとなる未来が確実に我々の社会の一部になり始めている。

終活という視点から見ると、パソコンのハードディスクを粉々にしてもらえれば、自分の所有をしてもらっていたものが自分と一緒に消えてしまうのは処分してもらうことを考えると簡単だろうと思うし、私も多少は気が楽だ。

パソコンやスマートフォンの「記録」のためのアプリや製品は昔から随分注目して、実際自分でも使ったりしてきたけれど、最近は「記録」と「データ化」をつなぐアイテムも含めていろいろと出てきている。

ちょうどその時にたまたまKindleで提供してもらう無料の一冊で「日記の魔力」表 三郎 著を読んだところ、彼がデジタルな日記の利点を随分と力説されていて、なるほどと思うこともあったので、iPhoneで日記を書いてみることにした。

確かに、紙を持ち歩かなくていい、どこでも書ける、データの貼り付けも随分楽だから、悪くない。順調だなと感じられたのだけれど。

字が書きたくなって仕方がなくなったのだ。

日記や手帳を書くことで満たされていた書きたいという願望が切々と。

書くということの効用は明らかに打つということと違うのだと改めて実感する。

かの国の言葉の仕事をしていた時に、最初の本はお師匠との共著予定だった。彼は原稿は原稿用紙に書かないといけない、という主義だったのでワープロも当時はおぼつかず、自分で入力はしないと宣言していたので、彼の本はこれまたアナログの編集者がそれをぽつぽつと入力していたと聞いた。結果、彼の遅筆のおかげで?私の専門分野で最初の本を単著にできたのは、まさにたなからぼたもち、ありがたい幸運をいただいた。

人に見せる書きものと自分のための書き物は正確には少し違う。私も原稿はデータで入稿したけれど、その元になるもののほとんどは指を動かしながら脳を動かし、書いていた。人に見せるためのデータ化だったわけだ。

「書く」という作業には「打つ」のとはまた違う、思索の放出を促す何かがあるのだろうか。先ほどの表さんはその著書の中で、日記は直接入力していても、「読む」時には「紙」に打ち出して読む方が頭に入り、より精査できるということを述べている。それに、誤植が画面で確認しているよりも見つかる確率が上がるのも事実だ。

脳神経と末梢神経の関係は深く、指や手のひらへの刺激は脳を刺激することはよく知られているし、手仕事をする人たちの多くが若々しくいらっしゃるのも通じるところがあるのではないかしらと思う。

ということは、「書く」と「打つ」では脳からの出力に多少の違いがあるのかもしれないということを久しぶりに体感することになった。

書くための道具や書かれる紙にこだわるのも、もしかしたらその多少の刺激の差に自分のフィットする如何があるのではないかと考えると、最善の一本、状況に適した一本を探そうという試みもそれほど理解が苦しいものではなくなるから不思議だ。

で、私は結局どうするのだろう。

まだ結論を出すまでには至ってないけれど、せっかくの少ない楽しみを自分がいなくなった後のことにばかり注目して我慢するのもおかしいので、処分のタイミングだけうまく考えればいいのかな、他とのバランスをとりながら。

 

 

 

 

 

経験の土台

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先週のことですが、また年齢を一つ重ねました。

毎年、反省をして抱負を書いていますが。

昔から実は誕生日があまり得意ではありません。そこに意味づけすることが当たり前な風潮に一生懸命乗っかっていた気がしますが、今年はそんな気遣いをすることもなく、あたふたと着物を着付けてお稽古前に天満宮にお参りをし、たっぷりと汗をかきながら踊った1日でした。

近頃、どうして人間はそんなに話すことがあるのだろうと思います。どうしてそんなに人に理解されようとしたり、言葉の羅列を延々と誰かを相手に続けているのだろうと不思議になります。

かの国にいた時、延々と電話で話し続ける彼らを見て「何をそんなにしゃべることがあるのだろう」と不思議に思っていましたが、実はこの国でも同じでした。

教えていても、文章を書いていても、通訳をしていても「どうして理解できないのだろう」と思うことがありました。それは自分の下手さが原因なんだと長く自分を責めながら、頑張ってきましたが、この数年そういうことをパタンとやめてしまいました。

理解できないという事実に理解して欲しいという感情は無力なのです。

翻訳にしても通訳にしても、文章の良し悪しを語る前に、「共通する認識の土台」の程度を測る必要をいつもかんじていました。

例えば、ある国が世界地図のどの辺りにあって、豊かなのか貧乏なのか、暑いのか寒いのかちょうどいい頃合いの気候なのかぐらい知らないと、その国の人に対する想像力なんて及びもつかないわけです。

余談ですが、声調言語の国で、知識階級の人には通じる自分の発音が、地元の農家や警察官には通じないということはよくあります。(除く外国人のお相手がプロフェッショナルな人)それは、知識階級の人たち、すなわち想像力や集約力が高い人たちのほうが、お粗末な外国人の発音や癖を文脈なども併せて類推して理解できる能力が高いということです。

どちらにしても、たくさんの情報を集約して無意識にでも分析し、「こういうことかもしれないね」と想像力を働かすことができるのは、ある程度の「土台」があってこそのことだと考えています。

大学時代、私が卒業するのと同時に、私のお師匠である指導教官がサバティカルをとって、外国に旅立ちました。それまで、本と格闘しながら、ひたすらに学問に打ち込んだ彼が旅立った理由を数年後、帰国した彼にたずねたことがありました。

大学生の私は自分の行き道がわからなくてあちこちに頭をぶつけた傷だらけの猫のようでした。誰とも共有するだけの土台がなく、学問の中にその答えを見つけるべく、ふらふらと歩きながらみーみーと鳴いていたような気がします。私の指導教官は、頭をぶつけすぎてアホになっていた私の前に餌を置いて、こちらを歩いてみたら、と印をつけてくれた人でした。

頭をぶつけなくなった私はパワフルにその道をグイグイ進みました。呆れるほどに。

昇華できていない経験の塊と格闘するその姿が彼には強烈だったようです。

経験だけによって得られるもの。

その凄さを実は君は僕に見せてたんだよ。と、お互いの顔なんて見ることもなく、グラスを傾けながらポツリと恥ずかしそうに言ったことを思い出します。

この数ヶ月、自分の中にあったエアポケットのような何にも侵されない圧倒的な静寂を持つ空間が大きくなって、心地よく静かな時を今まで以上に過ごせることが多くなりました。

いろいろな経験は人を雄弁にも寡黙にもします。

人に理解を求めるより、自分が何かを理解するために、淡々と経験を積み重ねてたいと思います。よりたくさんのことが理解し、想像できるような経験の土台を強くしていきたいです。

それが結果的に、世界や社会のためになるようなことであれば良いですし、まずは自分が美しくおだやかに存在し、身近な人を心より大切にして感謝して愛していければ、それが一番ありがたいことだと思っています。

優しすぎる、考

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”考えすぎ”と周りから指摘されることがずいぶんなくなったなぁ(かといって考えるのを止めているわけでもないけれど)、と思っていたら、”優しすぎる”と言われる。
ちなみに本人は、自分のことを冷たいと思うことはあっても、他人に優しいとはあまり思わない。

いつも通りの屁理屈を言えば、”優しさ”は相対的なものであって、それが”すぎる”のかどうかという多寡の問題は本人またはその対象によって、たとえ”優しさ”というのが数値化できて、妥当である標準的な値を算出できたとしても、可変的で、”過ぎる”かどうかの妥当性は証明できない。なんていうことをつらつらと言えば言えなくもない。

でも、親しい人がこぞって”過ぎる”というのだから、少し考えてみることにした。”優しい”に”過ぎる”がつくと決して褒められているわけではない。笑 そもそも、優しいってあまり良いニュアンスで昨今使われない気がするのだけれど。

数日後、「優しすぎるとなぜ損をするの」というエントリーを目にした。中身は気が向いたら読んでいただくとして。優しすぎる=損する、というのはどうも人間社会においては鉄板らしい。

自分の周囲にいる人とのやり取りを「得」とか「損」で判断し、「損」にならない程度に自分を守りましょう、と言える人たちと、私の議論の方向性にはかなりの開きがあるので、この手の論考は全く役に立たない。同様に、八方美人だとかそういうのもパス。

ということで、そう言われたきっかけ的なことに記憶を戻してみると。
私の視点から共通して言えることは、対象に対して自分の領域を超えて働きかけをしなかったということだった。

それが周りの人にとっては、”相手の気持ちを慮りすぎて”優しすぎる対応ですよ、あなた!ということになったのかもしれない。

でもそれは実は自分がもうそれ以上踏み込みたくないです、の裏返しなのかもしれない。相手の気持ちがわかるからこそ踏み込まないのか、踏み込みたくないのでUターンするのか、私は断然後者のことが多いけれど、そうは見えないのかもしれない。

だから、たとえ”踏み込んできてください”と言われても踏み込まない。だって自分がそうしたくないのだもの。笑

もし、現状”踏み込まないでください”だったとしても、何かしてあげたい人なら、停止線の枠の外で、救急道具だとか、食料だとか、持って待ってるのが私。それはその人のためではない。自分のため。

相手の気持ちは想像だに難くないけれど、その想像の結果、自分がとる行動はあくまで本人のためというよりは自分あってのことなのだ。そういう行動に値するか否か。あとで後悔しないかどうか。相手の気持ちというのもいろいろ解釈ができるし、いろんな選択肢がある。決して一つではない。

学生時代、優しい言葉をかけた後、慮ってそっとして置いていたのをずいぶん経ってから、”気にかけて手伝ってくれると言ったのに何もしなかった”とおとなしい(と思っていた)友人にずいぶん罵られた。笑 すべきことをしなかったと責められるのは私なのか?という問いが頭に浮かんだけれど、そのときは自分を責めるばかりだった。

メンヘラな人(失礼)には文句の言えないほどの正論と正当性を持って相手が”自分のせいだから仕方がない”というところに落ち着かせて終わらせてもらうことにしている。もしくは一切立ち入らない。私のいったことなど覚えてもないし、理解もしない。何もその通りにできないのだから非難だけされなかったらそれでいい。

私は丁寧に誰かと向き合い、付き合いすることを心がけているけれど、それが優しすぎるということで”損”な役回りを受けているつもりもない。あくまでできる範疇で。それ以外はめっぽうドライなのだけれど、その切り替え部分をご存知ないとそう見えるのかもしれないとも思う。
いろんな経験を経て「決して一線越えさせない」ようにしている。笑

これは誰よりも自分に納得のいく答えがほしかったための自己分析なのかもしれない。画一的に語られる”優しすぎる”と自分の中にあるそれがあまりにも乖離していたことが発端だったのかもしれないし。

あらゆる行動は、カミサマノイウトオリ、だし、滅私でいければいいと思うけれど、前回の話と同様で、”私”という実態を消して生きられない今生は、この身と心を十分に労ってやりながら行かなくては有限な時間を必要なものに使い尽くせない。単純で明確な私の今の生き方。

語るべきこと。

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小さい頃からおしゃべりだったのではないかと思う。

なんだかわからないけれど伝えたい思いや、理解して欲しいものがあって、それが書くという情熱や言葉にまつわる仕事に私を押し出していったように今は思える。

もう何ヶ月も集中して、今まで仕事にしていた言葉でない言語を独学で学んでいるけれど、どうしても今一歩身に入らない。本業の仕事ですら、なんだか足踏みしてしまって、仕事を断る基準値が随分上がって行っている気がする。

その一方で、読む、見る、考えるということに対してはオープンマインドだし、自由でいられる。多岐な内容のものをたくさん並行して読んだり、時間があると電子書籍が入っているiPhoneが手放せない。ガジェットオタクだった頃とは全く違う、iPhoneの愛用方法。これはこれでいい気もする。

 

自分の中にあって、なにより大事にしていた言葉というとっておきの糸を紡ぐための紡ぎ車がうまく回らない。紡ぐ機械がうまく回らないから、糸である言葉はなかなか出なくなる。

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「眠れる森の美女」はディズニーのアニメで好きな部類に入るのは、オーロラ姫が嫌な人じゃなかったかもしれない。そのオーロラ姫は、魔法にかかった紡ぎ針を刺してしまい、百年の眠りに落ちてしまう。

順風満帆なところで突然の悪意がオーロラ姫を襲い、それに抗うすべもなく、深い眠りに落ちてしまう、オーロラ姫。

でもそれは「死」ではなかったのが幸い。彼女を心から大事に思う人により彼女は永遠の眠りから覚めるわけだから、それが今このブログに無理くり言葉を紡いでいる私にも希望をもたせてくれる。

これは眠りであって死ではないということ。
言葉に対する思いと何かを綴るという気持ちは眠りこそすれ死んではいないのであれば、いつか行きを吹き返す時がくるはず。

多くの敵を倒し、オーロラ姫を救うために現れる王子様を今は気長に待つ時なのかもしれない。

とロマンティックすぎる言い訳かもしれないけれど、無力で何もできない自分を許してやるにはそういう演出も必要だということにしておこう。

眠れる森の美女は、アニメだけではなくて、バレエの題目としても有名。ストーリーをおさらいしたい方はこちら

 

 

身に合ったもの。

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フリーランスで仕事をし始めた頃に、当時人気のアナウンサー(今は大御所)がかいた恋愛もののエッセイが人気になった。彼女の文章力と表現力を持って織りなす様々な男性との恋愛についての持論はあの国の女性エッセイブーム先駆けとなったと言っていいだろう。

あまりにも辛口で表現が面白いので日本語にしたら話題になるかもしれないと数冊読んだのだけれど、その中の一冊に「合わない男といるのは、カップの合わないブラジャーをつけているようなものだ。」という一節があった。女性にしか感覚として理解できない許しがたい不快感の表現として今でも忘れられない。

実際問題として、合わないサイズのものを使っている不快感というのは、おそらく人によってまちまちで、私なんかは個人的にとても不快で仕方がないけれど、甘んじていると慣れてくる。だらだらと合わないものを許す体に自分がなっていっている気がしていた。これはある意味恐怖。笑 合わないものを使っていると「これでも実はいいんじゃないか」と思ってしまうのだけれど、実は違う、やっぱり全然違うのだ。

合うもの、フィットするものは体がしゃんとしてより自然体で心地よくいられる。

合うものを使っていると体が喜ぶというのは何も下着や靴に限ったことではないのだろうけれど、より肌に直接触れるもの、長く使うものほどその差が大きいし、そういうのに無頓着だとそれが外にも実は現れているのかもしれない。

でも実は自分に何がどのサイズが「合う」かを知らないと、こういう喜びというか、「合う」ことで得られる開放感を体験できないのではないかしらと思う。

道路状況の悪い国で、ピンヒールを封印していたのだけれど、履いても大丈夫なチャンスを逃さず、週に何度か足を入れるようになると、足がちゃんとピンヒールに「合って」くれる。この心地よさ、もう何年忘れていたろうという感じ。

肉体の持つこの感覚はちゃんと風化せずに残っている。自分らしく、美しくある有り様は自分の中にちゃんとあるのだという証でもある。

そんなことを思いながら身繕いをしていると、これって人との繋がりでもそうなのではないかしら、とふと感じる。自分にフィットするものを知らないと、「これでいいのだ」と思ってしまう。自分に本当に合うものを知れば、もう「これでいいよ」とは思えない。最善は最適ということ。

(写真はお借りしました)

 

 

 

 

波動を干渉させないために

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最近、波動についてもう少し深く学びたいなという気持ちが強くなってきている。

波動というのは、体の中に入れたもの、周りに触れているもの、全てに影響を及ぼして波紋のように形を変えてそのエネルギーを周りに伝えていくのだと思う。

自らがそのエネルギーの発信源として良い波紋の中心になることは、当然だし、自然心がけるところなのだけれど、人の生きる社会に生活するということはやはり様々なものに触れるということ。自分の中からも絶えず汚れたものが浮き上がってくるのだ。だから浄化して、汚れる存在である自分を常にクリーンアップしようと心がける。人間が生きるということの基本だと今では思っている。汚れる、だからキレイにする。この繰り返しで日々は成り立つのだ。

人は「汚れない」ということはないのだから。
いくら、いろいろな波動が身の回りにあっても、自分はそのバイブレーションに影響されたくないなとも思う。これも自然なこと。いつも身ぎれいにいる心算は、いつも整理整頓して、自分の身に置くものとそうでないものをきちんと選ぶことにあるのだから。

とはいえ、波動というバイブレーションにそんな選択権があるのかというと、結論から言うとあるのではないかと思う。波動のトーンを揃えないこと(なんだか昔言葉を教えていたことに通じる)で、そのトーンにはまらないでいる。

実はそれを言葉にしてそぎ落とすパワーがあるのが六根清浄の大祓だと感じている。
具体的な文言を読んでもらえれば、私がお伝えしたかったことの意味を感じとってもらえるのではないかと思う。

事実、六根清浄の大祓を読むと体の表面にバリアのようなものが作られるように感じるのが私には心地よい。何を見、聞き、触れ、感じようともそれは私を絶対的に侵すことはないのだという安心感をこの大祓を奏上することから得られるのだ。

この感覚、共有できるなら嬉しいなと思います。
今回お伝えしたのは、大祓の前半の部分。後半はまた違う意味で素晴らしいエネルギーをもたらしてくれる言葉が詰まっています。その話はまた今度。

六根清浄の大祓

あまてらしますすめおおがみののたまわく
天照皇太神の宣はく
ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり
人は則ち天下の神物なり
すべからくしづまることをつかさどる こころは すなわち かみと かみとの もとのあるじたり
須らく掌る静謐心は則神明の本主たり
わがたましいをいたましることなかれ このゆえに
心神を傷ましむること莫れ 是の故に
めにもろもろの ふじょうをみて こころにもろもろの ふじょうをみず
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
こころにもろもろのふじょうをおもひて こころにもろもろのふじょうをおもはず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
このときに きよく いさぎよき ことあり
此の時に清く潔き偈あり
もろもろののりは かげとかたちのごとし きよくきよければ
諸の法は影と像の如し 清く潔ければ
かりにもけがるることなし ことをとらば うべからず
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわち
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は則ち
ろくこんしょうじょうなり
六根清浄なり
ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり
ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに
万物の霊と同体なるが故に
なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし
為す所の願いとして成就せずといふことなし
むじょうれいほう しんどうかじ
無上霊宝 神道加持

✴︎ここではろくこんしょうじょうとなっていますが、私は普段ロッコンと発音しています。

 

願いを書くこと、願いを叶えること。

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最後にブログを書いてからずいぶん時間が経ってしまいました。

書きたいことがなかったというよりもむしろ、それを言語化して、自分以外の誰かに語るための何かが欠落しているような感じでした。

仕事として何かを書かずにすむようになるということが、寂しいと感じることがなかったと言えば嘘になりますが、無理くり絞り出す苦しさから解放されて、全く新しい興味関心の中に自らを没入させられることの楽しさを味わう時間がかけがえないのです。

そういう毎日を過ごしているなかで、やめたことがあります。
今回はそのお話しをしようと思います。

私は言葉が大好きですし、文字を書くのが好きです。
言葉で表現することの与えてくれる楽しみとは想像力の発露でもあります。

願い事をパソコンではなく、紙に記しなさい、それを見返しなさいというハックはスピリチュアルやさんでも仕事効率化でも女子系でも色々な人が様々な形で書いてきた、ここ数年で一番拡散度の高いハックのひとつだと思います。

御多分に洩れず、私もそのハックをかなり忠実に行ってきた一人です。やらないと願いが叶わないのではないか、とうっすら思っていたのかもしれません。

紙は神に通じ、言語化することで深層意識に深く浸透していく、何度も目にすること、文字にしたものを視覚としてとりいれることも無意識化の意思決定に影響を及ぼすという説明には一理あると思います。

だからこそ、何年も欠かすことなくやってきたのですけれど。

今から数ヶ月前、「そういう時期は終わったのだ」というメッセージのような気づきがきました。

全て願いが叶ったかどうか、とか書くことで叶うとか叶わないという次元から自身が確実に抜け去ったという感覚が、心の奥底から表層にぐっと浮き出てきた、私はそれを知っていたけれど、惰性や強迫観念のようなもので続けていたことを手放すときに来たのでした。

願いを叶えるということを意識化するということは、自分の外側に出す、ということでもあります。
もし自らがここでずっと述べてきたように、宇宙と一体であり、宇宙によって生かされ、自分の意思とは常に超越した何かと連携を持って希望や未来やなすべきことが自らの「意思」として表出するということを熟知しているのであれば、自らの外に出す必要などどこにもないのです。すなわち、自分そのものが宇宙や神といった超越した存在の意思、願望の発露なのですから。

願という漢字は
「形声文字です(原+頁)。「崖・岩の穴から湧き出す泉」の象形(「みなもと」の意味だが、ここでは「愿(ゲン)」に通じ、「きまじめ」の意味)と「人の頭部を強調」した象形(「かしら(頭)」の意味)から、きまじめな頭を意味し、そこから、自分の主張を曲げず、ひたすら「ねがう」を意味する「願」という漢字が成り立ちました。」引用元:http://okjiten.jp/kanji650.html

自分の主張を云々以前の問題、自分が宇宙や大きな存在の器として生きていくときに自ら発願しつづけるというのは、当然相いれないもの。

結果として自分が神様、宇宙の器として在ることができているのだ、という安堵感は、昔の自分が一生懸命に何かを「整えよう」としていた名残を一つ手放せた証なのかもしれません。
今の私はそういう経過を経て、美しく宇宙と調和した有り様に整っていると心穏やかにそれを感じられているのが良いのかもしれません。

もちろんこのような三昧に到達できているのは、パートナーのおかげでもあるし、それこそ何年もそうやって願いを書き続けてきたことにあるのだとも感じつつ、これからはより宇宙と一体化して願いというものが自分の人生や生き方と一体化した状態を楽しむつもりでいます。

足を洗う〜パートナーシップ〜

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写真はウェブからお借りしました。

時代劇の映画を観ていて、武士のご主人が戻ると土間で奥さんが「お戻りなさいませ」と足を洗う姿が美しいなと思っていた。ローマを舞台にしたヨーロッパの時代劇でも、戦士である主人が戻ると妻が彼の足を洗っているシーンがあった。

大切な人の足を洗う、というのは敬意を表すための美しく正しい行為だなと深く感じた。

このブログでも何度も書いているように、100の言葉を紡ぐよりひとつの行動によって示すものに価値を見いだせる同じ価値観の人でないと理解しづらいかもしれない。

今の時代、女の人も強くなって、外に働きに出ている昨今、「そんなのやってられますかいな」という風潮も十分理解している。だけれど、自らが愛し尊敬するパートナーにそんな想いが芽生えないの?と思う。

「足を洗う」とは語源由来辞典によると
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聖書の中にも実は足を洗う話がある。
「ヨハネによる福音書」 13章1節~11節、最後の晩餐の際、イエスが弟子達の足を洗う記述がある。詳細はこちら

昔の道路状況と靴では出先から戻ったらまずは汚れた足を洗うことでようやく「外」から「内」への切り替えをしただろうし、不自由な履物を脱いで足を洗うことで出先での疲れも取ったのだろうと思う。

また、スピリチュアルでは邪気は足裏から出ると考えられている。外で触れて来たであろうものや自らの内部に生じた「邪」なものを水で洗い清めると言う意図があったかどうかは分からない。だけれど、それらを内部に持ち込まないことに結果的に一役買っていただろう。

「足」というのは上下でいうと下、穢れやすい部分と考えられている表現やエピソードはここに紹介しなくても日常的に使っていると思う。

足を洗うということは聖書の中でイエスが言うように、清められる行為、そのものと言っていいのだろうと思う。

話を最初に戻そう。
映画の中で妻が夫の足を洗うという行為に無事の帰宅への安堵と喜びを感じながら、清めることに純粋な愛情と感謝のひとつの表現として私は美しさを感じたに他ならない。

宗教においても象徴的に「足を洗う」という所作が使われているけれど、「家」こそが「神殿」だと思えば同じコンテクストなのだ。だから常に整然と浄化されていないといけない。

「マダムはお花が好きですね」とお買い物から戻ると、周りのローカルの人達がいう(いくらで買ったかも聞かれるけれど、適正な価格で買っているらしい)。清浄で整った場所でないとお花も飾れない。家が神殿だと考えれば、神殿には花を供え、いつも良い気を放つよう心がけられたらとおもうのである。(お花がすぐ枯れるのはその場所に問題があると言うこと。センサーの役目も果たしている)

今の世の中、そんな風にパートナーの足を洗う人がどれだけいるのかわからない。でもたまには感謝の気持ちを込めて背中を流してあげ、心を込めて洋服を洗ってあげることだって、「足を洗う」という感謝に通じるのではないかしらと思う。

近頃、「尊敬」ということを良く考えている。愛情と尊敬。
どちらもパートナーシップには不可欠だと思う。
自分のパートナーに「あなたは素晴らしい」と心の底から言えるパートナーシップを築けていない人達の多いことにふと気がつかされる記事を読んだとき、殺伐とした気持ちになった。「歯磨き粉を歯ブラシにつけてあげる」位のことで、「女は家政婦か」と言われてしまったら、「足を洗う」なんて「男尊女卑」も良いところなんだろうと思う。

「おかげさま」という気持ちを表現してもらおうが、「自分の手柄」にならないことが面白くない人が多いのかもしれない。

自分の手柄がパートナーと彼の成功そのものである、と思えばその気持ちは満たされるのか、と考えるけれどそれもどうなんだろうと私なんかは思ってしまう。

結局、人間は誰かに認められたくて、損得勘定をしてしまうが故に、自分が信じた人にただただ尽くし抜くのは幻想なのかしらん。

結局、尽くし抜くということに対して「損得」ではないにしても何かしらの充足をパートナーによって与えられる、そばにいることで感じられれば、それほど難しくないと思う。(大前提として、お互い深く愛し合っているということがあるだろうけれど)

世界の東西いずれにも、「(主人の)足を洗う」という行為があったということは普遍的な意味合いをもたせても良い気がする。だけれど、時代が変わり、社会が変わると何か根本的な本質を見失い、自らの性差は特長ではなく差別の対象となってしまった。

ただ一人、自分だけのことをしっかりとすることはさほど難しいことではない。それもそれなりに楽しい。ただ、1はいつまで経っても1で、2にも3にもなりはしない。その虚しさを知っている人(一対)だけが、1+1の以上の何かにたどり着くべく淡々と歩めるのかもしれない。

そういう時間を意識的に積み重ねた日常だけが本人達も想像だにしなかったような境地へ足を踏み入れさせる。

未来への生き方と過去

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科学技術がますます進歩し、国の境がなくなっていく。

国の境をまた取り戻そうという動きやたくさんつけた機能が「いらない」となってシンプルさが喜ばれていたりする。

人間や社会はいつだって「より良い状態」という意味での「進化=化けることで進み続けること」を求めている。

人間が地球の上でいろんな仕組みを作り、ものを作りして来た連綿時間の中でこれほど「煮詰まっている」という感じがするのは今だけなのだろうか、新しいパラダイムの模索の中でルネッサンスなんかは生まれて来て大きな風潮へと変化をしたはずなのに、古いものを「焼き直し」としてしか見いだせないのはなぜなのだろう。要するに、なぜ「美しく」ないのか。

パートナーが古い書画や車のサイトを眺めては「今はもうこんなの作れない」と嘆息しながら言う。
当時の作り手の息づかい、卓越した技術、手仕事を彼は常に賞讃し、彼らとともに生きた人のようにそのスタイルと有り様を理解する。

確かに、それらには「美しさ」と「重厚さ」はあっても「軽薄さ」みたいなものはない。

彼らも今の職人や作り手との想いにちがいはないはずだ。だけれど何か決定的なものが違っているような気がする。

若い頃、生まれてくる時代が遅すぎた、と感じることがよくあった私だけれど、何が「早すぎたり、遅すぎた」と感じさせていたのだろうか。

人の営みや作り出すものの「行程」には大きな差はない。それは先進国であれ発展途上国であれ、時代であれ程度の差なのだ。では何が決定的に違うのかというと、「ありうべき世界」というものをもっているのかどうか、なのではないかと思う。

「世界は美しくあるべきだ」という絶対的に揺るがない何か。それは「ユーザーの利便性」だとか「マーケティング」とか「コスト」を絶対的に凌駕するものであるはずで、そういう「グランドプラン」がないと結局は「手先」の技術でしかなくなるのではなかろうかという結論に達する。

国の有り様だって同じことが言える。こうあるべきだ、というグランドプランを提示する北の大国のリーダーが世界中から羨望と注目を浴びているのは、今多くの国が国民のニーズやウォンツ、海外からのそれらに汲汲と振り回されているからこそであろう。

日々の生活を大切に生きること、小さなことに感謝することの大切さと同じ位、大局でのありうべき姿、自分の立ち位置を見つめなければ日常はただの「毎日」となる。

私が十代のとき、留学した国から去る直前、「彼らは生まれて死ぬまでこうやって毎日、一年を暮らして年老いて死んでいくのだ」ということに気がついた。私はそんな風にして生きていくことは出来ない。彼らと自分のちがいを決定的に感じ、別離を決めた瞬間だった。

「進化」という「美」を「グランドプラン」としてもち続けていることが日常の手先指先からこぼれ落ちる技術となりうるのだということを古いものは教えてくれる。

「インスタント」で「手先器用」な世の中にあって、古いものを見直すということは実は過去の再評価を通じて未来すなわち、「現在」の「グランドプラン=ありうべき世界」を模索しているということになる。

美しさというのは何も美醜だけを言うのではなく、その姿勢を指す。
常に「ありうべき世界」を模索してそれを日常ににじませる、そんな日々を送り続けていきたい。
それが未来へ大きな寄与となる一端になると確信しながら。

ゆく年来る年 〜収束から快へ〜

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2014年もいよいよ残すところあと数日となりました。

今年一年をいろいろ振り返るこの季節、終わらなかったこと、変化するべくしてはじまったこと、すべてが自然に穏やかに流れつつあるように思います。

この一年は去年にはじまった変化を自分の中に馴染ませて落ち着かせていく、そんなような時間を過ごしたような気がします。「ありうべき」にとらわれず、自分が自分であることや目を瞑っていたことに目を開いてもかわらず穏やかに、自分の求める物や美しいと思う価値観を求めて深め続けられたとも思います。

本当に大切なものはそうたくさんなくて、私はそれを手に入れているのだというところにいつも最後は落ち着ける様になった、とも表現してよいのかもしれません。

もう、不必要に苦しむことも、悲しむことも、辛くなることもなく、あるがまま受け入れて自分は自分の菩薩道を一歩一歩歩み続けること。

愛を示す、褒める、感謝を伝えるという私の大切にしていること、カミサマノイウトオリ、カミサマノナサルヨウニと思いながら生きることがよりしやすい環境を目の前にした年末に、来年の抱負として「快」という字をあげました。

「快」という漢字には
しこりがとれて気持ちよい。さっぱりする。また、その感じ。病気のもとがとれてさっぱりする。病気がよくなって気持ちがよい。 心につかえるものがなくなり、これでさっぱりしたと思う。 もたもたしない。速度がはやい。刃がよくきれるさま。
というのがあるそうです。リンク

どの意味をとっても、今からの私にぴったり添っている感じがして。

自分の心の奥底が継続して感じ続けてられるのは「心地よい」という感覚だという一節からインスピレーションを受けてこの漢字を選びました。

この一年、読者の皆様にはたくさんの気付きやサポートをいろいろな形で頂戴できたこと、改めてこの場で感謝申し上げます。

来年一年が皆様とご家族、大切な愛する方一人一人にとっても健やかで愛に満ちたものであります様にと心よりお祈り申し上げて今年最後のブログ更新とさせていただきます。

来年も日々の気付きを大事にしつつ、思考を昇華させる場としてこのブログを通した対話を続けていこうと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。