生きるために死にいく

「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠聞書の有名な一節だけれど、武士と言う職業として「生死」の境を常に感じ行った一言なのだろうと思う。

いろんな解釈があるけれど、私は「生きる」と言うことをより深く考え、「生き抜く」ための「死」を見つけたのだろうと思う。

こんな風に感じるのは、日本から遠く離れた常夏の国で侍映画ばかり見ているからかもしれない。笑
どうしても生きて戻りたいと言う姿勢は「死なないで戻る」と言う手段を考えるからだ。

そんな状況では、武道の稽古のようなきれいごとではなく、相手に泥をかけてひるませて叩き切ることも「生きて帰る」ためには必要なのだから。そんな「藁をもつかむ」想いで日々を生きると、くだらない間違ったものを掴むこともあるし、千載一遇の機会をつかむこともある。

いずれにせよ。私も「藁をもつかむ」想いで日々を生きて、笑ってしまう程しつこくその藁を手放さなかった人間だ。

私には生きて帰って待っている人もいなかったけれど、何かを全うしたいと言う想いが強かった、のかもしれないし、ただただ、人の何倍か我慢強かっただけなのかもしれないし、ただの阿呆なのかもしれない。

侍映画の重たい話ではなく、今回は「食べる」話と心身との関係について。

日本を離れる時間が長くなり出してから、薬品の入った食材に敏感になり、身体がノーと言い始め、人工調味料も受け付けなくて、外食も湿疹のかゆさ覚悟で行ける店を選んで行くようになってもう5年以上になる。

気をつけても気をつけても治まらないかゆみには本当に閉口し、醜い患部もストレスになった。

今いるこの国でもあまり改善は見られないでいたのだけれど、パートナーの食生活がどんどんと変化し、私が前の国にいた時と同じ、一日一食になってしまった。元々あまり飲まないお酒もますます減り、デザートやおやつがテーブルからなくなった。
「18時間断食」をすると、お腹がすいてから食事をするので、身体にも良く、体調が良くなるので精神的にも安定すると言うので一人ではずっと実践していたけれど、これに「糖質」を控えると言うのが加わった。

以前、周りの人がこの糖質制限でお肉ばかり食べていると聞いて、何だかバランスが悪いなぁと思っていた。
炭水化物や甘いものをぐっと減らすことで驚いたのは、「糖質はこんなに眠くなるのか」と言うことだった。食後すぐに眠くなった経験などない私が起きていられない程の睡魔に昼間から襲われるようになったのは糖質を減らすようになってから。

お肉を食べると身体が重いと言うのは思い込みだったのかと言う位、お肉も普通に食べられるようになった。
お腹がすいて、食べるのが楽しみになるから、その日一日の食事(ほぼ一食)をとても大事に楽しみにするようになったとも言える。

そんな生活に慣れてくると「食べると言うことは死に近づく」と言うことだと話し合うようになった。
それほどのエネルギーを「食べる」と言う作業は身体に課している、まさに体感する一方で、気をつけていると思いつつ、どれだけ無防備に無自覚に身体に入れていたのだろう。人間の身体は食べたものから成り立っている。

自覚的に食べて行くことで、自分の身体とより深くコミュニケートできるようになって行く自分がいた。

もちろん、炭水化物や糖質が悪いと言うのではない。相変わらず、チョコレートはついつい手が出るし、おいしいパンやお米もいただくけれど、今までのような量を身体に入れることは決してない。楽しんで、八分目程で止めるのだ。(単にその後、眠くて何も出来なくなるからかもしれないけれど。笑)

食べないで70年程生きていらっしゃるヨガの行者さんもいらっしゃるし、日本では食べないで数ヶ月過ごした俳優さんも話題になっていたけれど、私は死に近づこうが、生きるために、楽しみ、味わうために食べると言う行為を続けたいなと思う。

パートナー曰く、「食べたいものを食べる、身体の欲しているのだから最善。」
その通りだと思う。

食べるものに迷いがなくなって、改めて出来るようになったのは「長めの咀嚼」である。
食べるテンポと言うのは一緒に食べる人がいると意外と重要で、ようやく長めの咀嚼が上手くできるようになって来た。

感謝しながらかむ。飲み込む。
今まできちんとやっていなかったことを後悔する程、身体の中から澱が出て行く契機になった。

半年以上続いた湿疹も口に入れるものと入れ方を整えて、ようやく完治。

よく生きると言うことはよく死ぬこと。
そのための心身の整え方にもきちんとしたベースが出来た気がする。

SNSを使って望む未来を引きよせる。

IMG_3992(写真は借り物です)

Twitter位からはじまって、Facebook、InstagramやPintarestなどなど、スマートフォンやパソコンをあけるとSNSを数珠つなぎに使う人も少なくないと思う。

昔は私もそうだったなと思う。数年前は定期的にSNS疲れに陥って、もうみたくない!みたいな気分になることもあった。
今はリア充なおかげで?あまりSNSに執着もしていないけれど、それにはリア充以外にもうひとつ理由がある。

SNSの使い方を変えたのだ。

SNSをみるのがイヤになっていた頃は「誰かとつながるツール」や「何かを伝えるツール」として使っていた。

実際にあわなくてもつながる、というのは便利な反面、見えない束縛を自分に課すことにもなりうる。
だからイヤになる。

誰が何をしているのか、どこで誰といるのか、何を食べたのか、そんなに興味があるのだろうか。
そこから流れてくる写真は自分の基準で楽しくて美しいのか。

そうでもないことが多いから、面倒にもなる。

それなら、自分のみたい物が常に流れてくるようにアレンジすればいいのだ。

今いる場所にしばりがあっても、オンラインでは世界中どこへでも行ける。ギリシャ、イタリア、オーストリア。山の上でも美しいサンセットを砂浜でみることも。

日本の美しい寺院でも好きなブランドのお洋服でもなんでも。

自分の美意識にあうものや人をフォローしていくとそこには「自分が美しい」と思うものが満ちてくる。

もちろん、大前提として「自分にとっての美しいもの」がわかっていなくてはいけない。

それがわからない人にとっては、タイムラインにそれを映し出すことで自らを知る作業にもなりうるかもしれない。

この国に来る前、一人大きなデスクに座ってSNSのタイムラインから流れてくる美しい景色やモノ達でどれだけ癒されていたかわからない。イメージできる世界が広がり、自分がまるでそこにいるような感覚をもてるようになったことに随分と役立ってくれた。

インスタグラムやピンタレストといった写真、画像が中心のものは、全体でみることによって自分の美しいもの、好きなものに対する全体的な傾向を掴むことも出来る。

自分の意識を包括的に客観視するということはなかなか文字などを通しては難しいので、これまた面白い。

足を踏み入れるには敷居が高いと感じる世界もSNSの中ではもっと気軽なものであっていい。そこでならしていればいつかその現実が自分に近づいてくる。

SNSのタイムラインは自分の思考の反映だと思えばいい。不安が多い人は不安になるようなものをたくさん選んでいるし、仕事や営業用ツールだと思っている人はそのような記事で溢れているだろう。そう思って自分のタイムラインを見ていると、そこには「他人の動向」でもなんでもない「私」がある。

「ありうべき世界」を一番シンプルに具現化できる場所。それが実はSNSのタイムラインではないかと思っていたりする。

記憶の上書き〜人生はミルクレープ〜

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この国で一番気に入りのホテルに初めて連れて行ってもらった日、感情の行き違いがあってギスギスした。

そんなことがあったおよそ一年後、私が一人でお茶しているところに「どこにいるの」と彼がメッセージをしてお迎えに来てくれた。

「どうしてここに来たの?」と彼

「記憶の上書きに」と私

良くない思い出や出来事は、小さい頃からいつも「上書き消去」していくように脳みそがなっているのだ、と思っている。

だから、ここに来る度に苦いやり取りを思い出すくらいなら、幸せな思い出を上書きしてしまえばハッピーだという単純な脳みそだともいう。笑

これで、私がお気に入りのホテルにあるエントランスが見える席は、苦い思い出ではなく、彼が颯爽とお迎えに来てくれた幸せな場所という思い出に上書きされた。笑

先日、ちょっとした旅に出た。その目的地は彼が数ヶ月前に一人でいって、オンラインでやり取りをしながら街の雰囲気を伝えてくれた街だった。彼と通信して話していたカフェに二人で座って飲むのは感無量で、その時に話してくれた場所に手をつないで連れて行ってくれるなんて、本当に待ち望んでいた時間が来たなぁと幸せな気分で満ち足りる。

離ればなれで心配しながら道中の彼を思っていた時とは随分と違う境地なのだ。

人間はもの・場所、いろんなものに実に様々な記憶を忍ばせているのだと最近思うことがある。

それはもしかすると、自分では気がつかない程のものなのかもしれない。
心身を開いて受け止めあう相手がいてこそ、そんな記憶も自分が気がつかないうちに、幸せな思い出はそのままに、辛かった思い出はひとつひとつ、上書きさせていければ、とおもう。

それこそ、大切な人に身を委ねることの大切さというか、意味のひとつなのではないかと思う。

自分で事業を始めた頃、よく「人生はミルクレープだ」という喩えを使っていた。その時は、いろんなパーツが重なって、だけれど、クリームという緩衝材があって実はひとつの事象=ケーキにまとまっているという意味で使っていたのだろうとうっすら記憶している。

ミルクレープを食べながら、その時とはまた違う意味で、人生っていうのはミルクレープみたいだなと思う。一枚ずつ食べるテイストと、クリームが挟まって何層にもなっているだけで全く味わいが変わるのは、何もそのクレープの味が違う訳でも何でもない、「重なること」でよりおいしさが増していくのであり、イチゴなんていうイレギュラーな食感と味わいも口に広がる。

ミルクレープにライフを重ねながら、自分の大切な人が自分に身を任せてくれていることの有り難さを思い、彼が私を受け止めてくれていることに感謝をしながら、これからもステキな思い出や時間をミルクレープのように上乗せしていこうとおもうのでした。

繰り返し告げられること

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昨年末、「どうしてそれぞれのミッションはとうに終わったことは理解しているのに、二人でのミッションに取りかかろうとしないのか」と言うメッセージが届いた。

ぐうの音もでない明確な宇宙からの突っ込みに「よし、始めなければ」と腰をあげたとたんにいろんな良い流れが来て、順調に進んでいるとかんじていた。

それでもまだ「せっかく唯一無二の使命を与えているのに、集中していない」というメッセージが届く。もうその次元で行動しなさい、望むようにいくのだから、はっきりと望みなさいと何度も言われる。

自分が何かをはき違えているのだろうか、という想いが胸によぎる。

もたらされることを自らの力でとりにいくことを求められているともとれるし、また一方でお前の思うようなことはすべての整うべきことの一部分に過ぎないのだから、それに固執しているお前はおかしい、といわれているという気付きもあった。

「とうとうはじまるからしっかりしなさい」ということをちょっと厳しく言われてるだけなのかもしれない。

新しい環境や人の中でひと月ほどの時間を過ごした中で「まだまだやれるし、もっとやれる」と思えたのは、何よりパートナーが私に日々与えてくれた自信の結果であって、今までのように一人でやりたいとか、一人でもなんとかやれるということを意味している訳ではない。

I からWe に舵をきっていく時に余計なことを考えずに行きなさいとも。

とりとめのない文章で結論というほどの落ちもまだ見つからないのだけれど、書かずにいられなかったのは、何かしら大きく噴火するような、卵の殻が割れるような瞬間が一刻一刻と近づいていることを記録しておくためなのか。

明らかなことは、何度でも繰り返し、伝えられるということ。
驚くほどに明晰な形で。

修正されるまで、時が満ちるまで。

カミサマノイウトオリ、バージョン2.0

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カミサマノイウトオリ(カミサマノナサルヨウニ)、というのは私の行動指針のひとつ。

カミサマノイウトオリ

カミサマノイウトオリにズルはなし

昨日夜、久しぶりにゆっくりパートナーとはなしをしてリラックスしたところで、その日に読んでいたいくつかの記事に同じセンテンスがあることにはたと気がついた。

「私とは「私」=「我、エゴ」意味するのではなく、その後ろにある宇宙そのもの。」

同日に日本語だけではない、4つの媒体から同じ意味の文章を受け取ったのは「このことを考えて受け止めなさい」ということに違いない。

滅私で生きる、すなわち「菩薩行」という人間的な感覚にとらわれずに生きることを思ってから、ずいぶんと思考も削ぎ落とされ、心が穏やかになっているのを感じた。自分が「菩薩行」を実践して生きているということすら、失念するほど身に馴染んで、それが当たり前になっていった。

当然ながら、私が宇宙そのもの、というのは別に自分が神や宇宙、菩薩の存在であるということを意味しているのではない。

では何なのか。
その答えの糸口が私の好きな「六根清浄大祓」の中にある。
六根とは自分の身、体を指し、それを清浄にするための祝詞である。

何を見聞きし、触れようとも心がそれによって穢れることがないという内容に続き、六根清浄だということは、五臓がやすらかであり、それであるが故に天地の神と同根であり、万物の霊と同根であるという箇所がある。

滅私でとらわれることなく、心身清浄に、世の中の愛と平和に生きるということはすなわち、結果それこそが「私」であるという大乗的な世界観でもあるのかもしれない。

私が目にしたそれぞれの文献の文脈ともそれほど大きく外れていないとも感じられる。

私は20年以上この国で小乗、自分が修行して自らを高めることにより、そのたどり着いた領域から世の中を変えられるのであれば、それが最善だと信じて学んで来た。自らがまだ修行の途中で人をすくうことは不遜だという思いがいつも心を占めていた。だから自分を高めなくては。自分をそんな風に追いつめていた。大乗のイメージは簡単に言うと、「南無妙法蓮華経」といえば、みんな天国に行ける、都合がいいものとしか長くとらえられていなかった。

「カミサマノイウトオリ」に生きる、「カミサマノナサルヨウニ」想い、行動するという自己規範はそこから生まれる深い愛と感謝で私の心を穏やかにしなやかに強いものにしてくれた。それこそが「私」なのだという帰結を今教えられることの有り難さとタイミングにいろいろな感情が去来する。

それこそが「大乗」的な観点での「私」でもあるとも併せて気付けたことはまさに、宇宙とのつながり、大いなる存在達が私の後ろにいて、それこそが「私」への福音である。

感謝にも愛にも必要なことは「受け入れる」と「与えること」だと思っている。

「カミサマノイウトオリ」に「カミサマノナサルヨウニ」と思い始めてから今日まで、間違っていなかった、血となり肉となったからこその、2.0へのバージョンアップ。これからも気負いなく、この道を歩んでいく。

愛と受容が生む変化という安らぎ

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多くの宗教の言葉には「言葉が最初である」と記されています。

「心」や「魂」あっての「言葉」だろうという方もおいでですが、体感として「言葉が最初」というのは真実な側面もあると思います。

先にエクスキューズをしておきますと、私はソーシャルメディアでよく見られる、「なんにでも、有り難うございます」を言っちゃうのは若干苦手だというのは前に書きました。「書いたり、言ったりすりゃいいってものではない」とは思っています。

実は今私のいるこの国の人は「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人たちが主体です。「こんにちは」って言葉もできて何十年も経てないのだからしょうがありません。「飯食った?」「どこいくん?」が挨拶なのですから。

神仏やご先祖様に毎朝毎夜、1日のお礼やご挨拶をするうちに、ふと思い立ってボスのご先祖様にも挨拶するようになりました。いろいろ言いたいことがあるボスですが、ご先祖様に挨拶するようになると、電話が鳴るたびに「こんにちは、ボス」「有り難うございました」というようになりました。

言いたいことはいっぱいあるので、何年もそんな丁寧さは半減させて接して来たように思います。要するに、気持ちは当初さほど伴っていませんでしたが、そうやってかれに話しかけると心持ちいろいろなことがスムースにいくようになってきました。彼に対する言いたいことは減りはしませんが、私の感情も思いのほか和らいだような気がします。ボスも私に多少優しくなった気もします。言葉は少なくとも自然と柔らかで丁寧になりました。声を荒げることも。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わないこの国の人たちにそういうことの大切さを教えながら躾けてきましたが、残念ながら、心の持ちようまで変わるところまで確認できなかったのは残念なところではありますが。

「ただ、そういっておけばいい」「言えば幸せになる、幸運が舞い込む」では変わり様もありません。

「褒める」「感謝する」「愛を伝える」これは伝えられている相手からするとただの「言葉」なのかもしれません。ただ、この3つの持つ波動の強さはそれを相手がそれを受容した瞬間(それは発する自分がその言葉自体を受け入れるということも含めて)、「ただの言葉」から「大きな力を携えた波動」になり、「言霊」となって自分と相手の中に入り込んでくるのではないかと感じます。

言葉の持つ音と意味が対となり、それぞれがお互いのパワーを高めあい、開いた魂の中に注ぎ込まれていく。

これが「愛」を伝えるということなんだろうと思います。

このつながりこそが「愛」だろうし、「変化」を生み出すすべての根源なのだろうと言うことを今ひしひしと体感しています。

そのつながりの清涼感はどんな荒んだ都会にいても一瞬に森林の奥にある滝へと連れ出してくれるような、魂の安堵感をもたらすべきものであって、そのためには多少なりとも時間も自らの修練も必要となりましょう。

「言霊」と「数字」の持つ意味の大きさはその変化を体感しきらないとわからないのかもしれないと思います。(私も数字はこれから修練にはいります)
大切なことはこれらはいずれも目的であってはならなくて、最終的に望まれる結果、なのだろうとも思います。だから一人心静かに、決意を持って誰に説明するでもなく、ひたすらに菩薩的な愛を持って行う結果、たどり着くこともあろう場所なのだろうと。

実感を伴わなければ、変化は感じ取れません。

自分にとって大切な人。そこがスタート。続ければ続ける程、世界は愛に満ち、望む世界が間近に近づいて次元変化に対応する心身が培われるのだろうと思っています。

先日のタイムラインで(男女が)融合した原点にゼロ磁場が生じるという話を読みました。役割の違う二つの存在が差異を超えて融合する所こそ、エネルギーの発露。正しく対(陰陽)がくみ合わさった地点には時間軸も差異も存在しない。ただそのものとして「ある」。

こんなに素晴らしいことはないなぁと思います。
信頼と真実の証といっていいのだろうと言われている気がします。

だからこそ、その一対が発するエネルギーは美しい世界の創造に費やされるのです。

おかげさまで。

2014-10-09 09.47.40

おかげは陰(かげ)に御という漢字をつける。

御陽はないけれど、御陰なのだ。

御陰というのは神仏や他人の加護、助力によって何事かをなし得るときにその言葉を使う。日本語って言うのは素晴らしい精神性を表現した言葉だ、なんて美しいのだろうと改めて思う。

陽のあたる自分の実績ではなく、後ろや下の部分で見えない尽力をしてくれ、成功に導いてくれた存在がなんにでもある。それを表にだすというか「その尽力、加護により」何事かを成し遂げられたということを示す。

何かと言えば、自分がなし得た実績や成功をショウオフしてしまうしてしまいがち、望んでいた成果ならましてやそうであろう。
優れた経営者が立派であると言われることの由縁はその「御陰」の存在をよく知ることである。自ら一人では何もなし得なかったということをよく知るからこその「御陰さま」なのである。

もちろん、陰の存在が自分でショウオフすることもこの世の中少なくない。だけれども、そこはやはり奥ゆかしくあるのが日本人のあるべき精神性だとも思う。

あなた様のお力あってのこの成果ですと腰低く頭低く、宇宙にもカミサマにも回りにも感謝を示し、「自分がなし得た」ということよりも「御陰」としてサポートして下さった宇宙や神仏や周りの協力を忘れずにまず言及すると言うこと。

何故御陽という言葉がないのか、放っておいても「成功」という形で注目が集まるからだ。主役はあくまで自分。でもそこにあぐらをかくといつの間にか「御陰」が姿を消して成功も永続していかないであろう。バランスの問題。「自分がやった」と言わなくても自分がなし得たことは自分がよく知っている。だからこそ、いつも「御陰さまで」このような成果を得られたと言えることが私にとっては一番自分の心根にフィットしたものとも言える。

人は一人で生きている訳でも独立独歩、何かをなし得る訳ではないのだから。

滅私でカミサマノイウトオリ、カミサマノスルヨウニ、自らの立ち振る舞いをと思うからこそ、この「御陰」という言葉の深さが改めて胸に深まってくる。

行動という証

2014-06-26 17.23.36 (meaw-MacBook-Air's conflicted copy 2014-06-27)

どちらかと言うと言葉をとても大切にしてきた今までの人生だけれど、実は言葉とあわせて自分が意識的に行うことで意味をもたせることをしてきた。

言葉ばかりに意味や価値をおいてがっかりすることは数限りなくあった。
もしかしたら、自分も無意識にそうだったのかもしれない。

こんな風に行動と言葉で表してもそれを理解してもらえない相手はともかく。

何にありがとうと感謝しているのかは言葉でないと伝えられない。
愛しているならそれを相手に言葉以外でどうしたら伝わるのか。
親子でも夫婦でもパートナーに幸せになってもらうように自分が行動することで結果的に自分の愛や感謝を伝えたいと思うと、表現の方法は無限にあるような気がする。

感謝しているとおりに触れて伝えるたび、相手が自分にとっていかに大切か、相手が自分に与えているかけがえのない影響を再認識する。言葉で伝えることのもう一つのよい影響なのだろうと思う。

学生時代に憧れの人に大学4年間手紙を書き続けて、その人と結婚した友人がいた。彼が送ったのは「手紙」と言う言葉なんだけれど、毎日のように手紙を書き続けると言う行為が彼女の心に届いたのだろうと思う。彼の手紙は「言葉」であり「行動」でもあったのだ。

もちろん、それを相手が「愛されている」と受け取る感性というか共通言語を持ち合わせていなくては何をしても意味はないのかもしれないけれど。

身体を日々動かすことで身体が締まって筋肉がついていくのと同じように、行動という愛情なり思いを伝えるやり方がどんどんと自分や相手の心や暮らしに浸透していくことが信頼を形作っていくのではないかとようやくわかるようになってきた。

今までの一方通行な愛や生き方ではわからなかったことでもある。

改めて誰かを大事にしたり、愛すると言うのは広義の意味での人類愛をのぞいて、愛とはそれほどたくさんの人に深く与えられるものではないのではないと気がつく。

もちろん、子供への愛とかそういうのはまた違う次元なのだろうけれど。
本質はそう変わらないのかな、とも思う。

感謝や愛情にまつわる価値観が同じであることが信頼を築き上げるための基本だから。

言葉が結果嘘になったり、叶わないで終わることがある。
それを無為に責められることも、自分で悔しく思うこともあろう。
行動は相手がそれをどう読み取るかは別として、自らの思いの発露の証としては嘘偽りのないものであるはず。私は、その一点に大きな価値を置いている。

役割の終わりという関係の終焉

2014-08-05 13.52.15

人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。(森信三)

という言葉は、若い人にも人生に少し疲れた世代にも等しく、人生の出会いの意味を感じさせてくれるものとして魅力的に響くもの。

だけれど同時に、人生にそうやって出会う人すべてを入れておけない。

だから、終焉がある。
役割が終わったとしても、つながっていく関係性はその形をまた変えていく。
親子の関わりなんかはそれにあたるだろうと思う。

縁あって結婚したけれど私のように離婚したあとの方がお互いに理解を示したりすることもある。その関係も役割を終える時期がもう近づいている。

関係というのは相手と自分というに点がないとつながらないからこそ、双方の同意がなく、片方だけでも終わったり始まったりする。

双方の意図が関係ありそうで実はもっとも影響が及ばないからこそ、当たり前に思ったり、大事にできなかったりするのかもしれない。

すぐにこの縁は深くなる、と直観することもあれば、結果そう言うつながりになることもある。

縁(えにし)というものの奥に秘められた役割、いわば業(ごう)についてはもっと思考を深めていくべきことが多いと思う。

土地との縁、人との縁。
切りたいけれど切れない縁、
切りたくないのに切れる縁。

縁あって、前世の業やつながりで今誰かとつながっているのであれば(それがいい関係であれそうでないものであれ)、きちんと全うしたいという思いが日々強くなってきた。

先ほどの森信三の言葉から考えると、自分に与えられていることをきちんと全うすれば、その縁でもたらされた役割も、きちんと全うするだけの時間とうまくやり抜く人間性をその瞬間に備わるようになっていくということなのだろう。

正しいも間違っているもない。
ただその目の前にある縁での役割を全うする。
それが一生のものなのか、ほんのひとときなのか。

誠意を持って人の道に外れないでいけば、その役割の終わりも何もかもちゃんと自然とわかるのではないかなと思う。

年を経ればより賢くなりたいし、軽薄な言葉を聞かされたりしたくない。
自分より年齢も経験も多い人間が軽薄な言葉をいい、不誠実な対応をして表面だけを繕う姿を見ると、よい反面教師としてのお手本を頂戴したことにありがとうございますと礼を言いたくなる。
あなた様のような年よりにはなりたくない、と。

人間としての成長を続ける限り、求めるのは与えられた役割をきちんとこなせる自分。
あらゆることを乗り越えられる自分。
どうしても引けない一点は守れる自分。

えんま様にも神様にも恥ずかしいことはしなかったと報告できる自分。

それは逃げないということだし、肚を決めるということだし、引き受けるということなんだろうと思う。
その縁続くまで。丁寧に。

縁が続くという望外の喜びにいつも寄り添える自分でいたいと思うのだ。
人間は一人生まれて一人死んでいく存在なのだから。

自分にむち打つ。

2014-08-12 18.05.55

私にとって、自分を責めないでいることほど難しいことはない。

人に対する怒りなどより何倍も強い怒りがまっすぐに自分に向くのだから、「自分に腹が立つ」ということを日常的にやっている人ですら、この理解しがたいやり方に理解を示せるかどうかどうかわからない。

私が自分を責めている時は、愚鈍な牛や豚のような家畜をむち打つように、容赦がない。
弱いところを知っているのだから、そこを責め続ける。

えんま様の最後の審判だって、全部見られているその経過含めて問われると言うから、それに近いのかもしれない。

ある時はその決断を、ある時はその愚鈍さを、ある時はその浅はかさを本当に徹底的に責める。

感情や思考を通して自分が自分を責めているにも関わらず、その矛先というか、痛みは身体にでる。
反論すら許されない身体がうめき声を上げる代わりに痛みを感じさせる。

ショックなことがあると胃潰瘍になったりするというのはあながち嘘ではない、私は自分を痛めつけて長くそうやって来た結果の身体の不調にずいぶん悩まされてきたし、前回自分を派手に痛めつけたときにはやはり急な腹痛のあとに出血をしていた。

責めて賢くなるのなら、いくらでも責めればいい。
それが他人であろうと人であろうと。

でも、責めたってその状況が思い通りに変化する訳でも、愚かな自分が急に明晰になる訳ではないのだ。

そうだとしたら自分の心身を痛めつける意味は一体どこにあるのだろうとふと思う。

キリスト教では罪を許してもらうために自らをむち打つという行為をしていたようだけれど。
自分で自分を責めても許しを与えるものと同じ存在が許しを請うべく痛みを負うているなんていうのは、同じような行為だと考えるのであれば欺瞞ではないか、と思ってしまう。

そのような意図すらもたずにただ愚鈍だから、浅はかだからと痛めつけてるという行為には終わりもなければ、達するべきものもない。自らを罰しても痛みだけがあるのでストレス解消にすらならない。

ただただ、魂と身体を滅ぼすだけの行為なのだな、と気付く。

いつだって、魂と思考や感情が同じレベルにないことがこうやって自分を痛めつける原因であることもよくわかってきたけれど、そこでこの歩みをやめてしまえば望むべきところにあがっていけない。

魂と身体を痛めつけることなく、すべてを同じレベルに高めていけるスムーズな過程などないのかもしれない。
とても個人的な作業だからこそ、一人でのたうち回りながら、床を這いずるように自分のエゴや醜い部分と対峙するのだから。

自分を大切にすることと甘やかすことは違う。

どうするのが最善なのかまだ見えないけれど、心身を痛めつけないで済む方法を模索してもいいのかもしれない。
もういい年齢なのだから。笑

周りは自分にそんなに期待していないんだから、という励ましの言葉をもらったことがある。

そのとおり。だからこそ、自分は自分を叱咤激励して期待してやらねば、誰が期待するというのだ。
「お前ならできる」と言ってやり、倒れているところをけり飛ばして立ち上がらせることができるのは自分だから。
何より、そうなりたいのは自分自身でしょう、と肩を抱いて諭してやれる自分でなければ。