2016年、年末。

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意外にも日本で数年ぶりにお正月を迎えられるとは想像もしなかったけれど、キンと冷えた大阪の台地の澄み切った空気はやはり日本に住むならこの辺りが最善と思わせてくれるよさがある。

シンプルとは、真のエレガンスの基本
“Simplicity is the keynote of all true ellegance.”

ココ・シャネルの潔いこの言葉はファッションのみならず、人生やライフスタイルにも重ねると一層味わい深くなる。

”ぱたん”と何かを表現する、思いを言葉にする、ということへの扉が自分の前で閉ざされた時、今までほど慌てずにいられたのは、無意識にかかえていたものを実は手放していたからかもしれない。

人間というのは何かを常に得ようとし、それを消費しようとし、消費しきれないものは蓄えることに専心する。それを複雑に多様な形で支援するのが消費社会のメカニズムの基本構造だ。

2年弱の”欲しいものが手に入らない”という暮らしと数年の”大事だと思っていたものが手元にない”暮らしは、”欲求”という思い込みと”本当のニーズ”みたいなものを自分の中からあぶり出す作業だったように思う。

数年ぶりに帰国した私は、小さな私の城から今まで手元にないとやっていけないと思っていたもののほとんどを追い出した。寂寥感など微塵もない、清々しく多少は広々とした自室でようやく安眠できるようになった。

シンプル、と言うことは社会や周りにとっての選択ではなく、自分自身にとっての選択なのだ。
そこに何物も介在しない、言い訳のないものだからこそのエレガンス。

日本を離れる以前は、遥か遠い場所のように感じられていた大阪城が本当に身近な場所になり、ここで私は自分自身をよりシンプルにしていくために自分と対話しながら整えていくことで、今までのことも、数年間の日本を離れた暮らしむき、傷ついていたこと、変化して強くなったこと、整理していき、対峙することで捨てていく。そういう時間が持てたことは本当に貴重だった。

折しも私が一人になって10年を迎えようとするので、一人でやってきたこと、これからのことも改めて考える契機にもなった。何年もかけて十分に一人ででき、一人を楽しめる人間になったことは事実だけれど、それでいいとは思わなくなったのも最大の変化だろうと思う。

Facebookのタイムラインで、レディガガのこの表現が目に入った時に、ファッション好きなには気の利いた表現だなぁと思った。

私は世界を変えようとしているの。スパンコールをひとつづつ飾るようにね
“And now, I’m just trying to change the world, one sequin at a time.”

私も世の中を少しでもよくできるようにと毎日を整えているけれど、それだけでは少し味気なくて、やはり心から愛する人がいて、その人と同じ時間を過ごし、その人を大事にする日常もまた、私はスパンコールの一枚一枚だと言えるのではないかしら、と改めて気付かされた。そしてそのような日常を選択していくのだ、ということに。日常という今、一瞬に感謝と最善を。

スパンコールはあんなに小さくてシンプルなのに。
その連なったまばゆさは一枚からは想像もつかない。

全てはとてもシンプルでエレガントなこと。
その意思と思考を持っておこなわれた一つ一つの行動がスパンコールのようにきらめく。

2016年の終わりに来て、宇宙や神様から、”間違っていないよ”ではなく、”よくここまで来たね”というメッセージが届きだした。2017年に向けて。

私の拙い文章を読んでくださる皆様お一人お一人にとって、2017年が幸福に満ち、安寧であることを心よりお祈りいたします。

 

カミサマカラノオシラセ

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以前、ブログで”SNSを使って望む未来を引きよせる。“というエントリーを書いたことがある。

今回お借りしてアップしてある写真のような、”すてきな風景で朝ごはん”の写真を見つけては、せっせと保存して目の保養に努めている。ボリューミーなイングリッシュブレックファーストの日も、コンチネンタルブレックファーストの日も、目の前にはため息が出るようなヨーロッパの街並みだったり、美しい自然が広がっている。私にとって美しい景色と朝食ってなんだか幸せな人生の象徴なのだ。五感をフルに喜ばせて、人生の一日をスタートするなんてなんて満ち足りているんだろう、と思うから。

私の写真フォルダには一体どれくらいの写真が保存されているのか。何年もその日を楽しみにしながら新しい写真を見つけて嬉々としてしまう。

カミサマノイウトオリ、バージョン2.0 という暮らし向きが一層自分にとって自然となっていき、宇宙と一体化して今目の前にあることにただ、ありがたいと感謝しながら滅私の気持ちでお支えしていくことに、何の迷いも心配もない毎日。

ただ、カミサマノイウトオリにズルはなし。  のような不安がなくなったとしても、”いつ”というのはわからない。郵便やEメールが届くわけでもなければ、事前にスタートした時に知らされているわけでもない。

明日にはわかる、今週末様子を見て、来週には必ず。

そういう言葉を何年も紡ぎながら、落胆と希望を繰り返し、その日が来るのを待っていたことがある人は少ないかもしれない。何年も。

だってそんなの待ちきれないから、普通。

事前に日程がわかっていたら、それまで好き勝手やって戻ってきたりもできるけれど、”ズルはない”のだ。毎日それを積み上げる。それがカミサマノイウトオリなのだから。

でも、その時がどう来るのだろう、と幾度想像したことかわからない。

想像することで現実が近づくかもと思っていた頃もあった。
今週はとても不思議なことが起こっている。想像とはどれとも違うのだけれど。
何年か越しのアイディアにつながる具体的な人との出会いや出来事がどんどん起こっている。
何度もやりかけてはやめたことも。
やめようかな、と思うと、障害が一つ消えて、またゴーサインがオンになる。

正直、この数年ついぞなかったことだ。

ふと思う。

カミサマカラノオシラセなのかしら?

 

(写真はお借りしました)

優しすぎる、考

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”考えすぎ”と周りから指摘されることがずいぶんなくなったなぁ(かといって考えるのを止めているわけでもないけれど)、と思っていたら、”優しすぎる”と言われる。
ちなみに本人は、自分のことを冷たいと思うことはあっても、他人に優しいとはあまり思わない。

いつも通りの屁理屈を言えば、”優しさ”は相対的なものであって、それが”すぎる”のかどうかという多寡の問題は本人またはその対象によって、たとえ”優しさ”というのが数値化できて、妥当である標準的な値を算出できたとしても、可変的で、”過ぎる”かどうかの妥当性は証明できない。なんていうことをつらつらと言えば言えなくもない。

でも、親しい人がこぞって”過ぎる”というのだから、少し考えてみることにした。”優しい”に”過ぎる”がつくと決して褒められているわけではない。笑 そもそも、優しいってあまり良いニュアンスで昨今使われない気がするのだけれど。

数日後、「優しすぎるとなぜ損をするの」というエントリーを目にした。中身は気が向いたら読んでいただくとして。優しすぎる=損する、というのはどうも人間社会においては鉄板らしい。

自分の周囲にいる人とのやり取りを「得」とか「損」で判断し、「損」にならない程度に自分を守りましょう、と言える人たちと、私の議論の方向性にはかなりの開きがあるので、この手の論考は全く役に立たない。同様に、八方美人だとかそういうのもパス。

ということで、そう言われたきっかけ的なことに記憶を戻してみると。
私の視点から共通して言えることは、対象に対して自分の領域を超えて働きかけをしなかったということだった。

それが周りの人にとっては、”相手の気持ちを慮りすぎて”優しすぎる対応ですよ、あなた!ということになったのかもしれない。

でもそれは実は自分がもうそれ以上踏み込みたくないです、の裏返しなのかもしれない。相手の気持ちがわかるからこそ踏み込まないのか、踏み込みたくないのでUターンするのか、私は断然後者のことが多いけれど、そうは見えないのかもしれない。

だから、たとえ”踏み込んできてください”と言われても踏み込まない。だって自分がそうしたくないのだもの。笑

もし、現状”踏み込まないでください”だったとしても、何かしてあげたい人なら、停止線の枠の外で、救急道具だとか、食料だとか、持って待ってるのが私。それはその人のためではない。自分のため。

相手の気持ちは想像だに難くないけれど、その想像の結果、自分がとる行動はあくまで本人のためというよりは自分あってのことなのだ。そういう行動に値するか否か。あとで後悔しないかどうか。相手の気持ちというのもいろいろ解釈ができるし、いろんな選択肢がある。決して一つではない。

学生時代、優しい言葉をかけた後、慮ってそっとして置いていたのをずいぶん経ってから、”気にかけて手伝ってくれると言ったのに何もしなかった”とおとなしい(と思っていた)友人にずいぶん罵られた。笑 すべきことをしなかったと責められるのは私なのか?という問いが頭に浮かんだけれど、そのときは自分を責めるばかりだった。

メンヘラな人(失礼)には文句の言えないほどの正論と正当性を持って相手が”自分のせいだから仕方がない”というところに落ち着かせて終わらせてもらうことにしている。もしくは一切立ち入らない。私のいったことなど覚えてもないし、理解もしない。何もその通りにできないのだから非難だけされなかったらそれでいい。

私は丁寧に誰かと向き合い、付き合いすることを心がけているけれど、それが優しすぎるということで”損”な役回りを受けているつもりもない。あくまでできる範疇で。それ以外はめっぽうドライなのだけれど、その切り替え部分をご存知ないとそう見えるのかもしれないとも思う。
いろんな経験を経て「決して一線越えさせない」ようにしている。笑

これは誰よりも自分に納得のいく答えがほしかったための自己分析なのかもしれない。画一的に語られる”優しすぎる”と自分の中にあるそれがあまりにも乖離していたことが発端だったのかもしれないし。

あらゆる行動は、カミサマノイウトオリ、だし、滅私でいければいいと思うけれど、前回の話と同様で、”私”という実態を消して生きられない今生は、この身と心を十分に労ってやりながら行かなくては有限な時間を必要なものに使い尽くせない。単純で明確な私の今の生き方。

滅私と立場〜人の間に神様が〜

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ここ数年、意識的に人との関わりを最小限にしているのだけれど、元々の仕事柄、裏方の仕事や秘書的な仕事は一般的な人よりはずっと手慣れているし、苦にもならない。自分の成果にダメ出しをすることはあっても、ひけらかしたり、大きく見せるのも自分らしくない。仕事ではないが、仕事という体裁でやっていれば誰に迷惑をかけるわけでもなく、こなしていけるし、こなしていたと思う。性格的にもそういうのが自分に合っているのだと思う。自分の性質として、数少ない自分のやりやすい、満足のいくやり方なのだろうと思う。

滅私とは、自分を利することを目的とせずに動くということだ。だけれど、社会というのはいつだって、ネームタグを必要とする。「お前は誰で、どういう立場の人なのだ?」「お前がそれをやって何の得になるからやっているのだ?」「それはこちらの利益になるのか?」

今まで幾度となくそういう問いをされてきた。

そういう疑心暗鬼の中に身を置くと、自分の本意や真意を理解してもらうことが億劫になる。こうやって他者との関わりに苦手意識を持つことになるのだけれど。

東南アジアで仕事をしていると、チームだと思っていた相手にすら、こういう理由で梯子を外されることがあまりにも多いのも事実だ。どこにいても、そこに入りきれないから自分から遠慮したり、いづらくて場を離れるというのはもうずっと前からのことだ。それは自分で仕事をし始めるずっと前からで、今に始まったことでは全くない。

まぁ、それはもしかしたら私自身の心の弱さゆえのことなのかもしれないし、一人でも苦にならないからそうしてしまうのかもしれない。一人でいると自分の立場だとかありようは自分が決めた、自分が納得したものでいいのだけれど、そういう自分のまま”人間社会”という”お外”に出ると、またいつもと同じ問いが繰り返される。

”誰々ちゃんのお母さん”も”通訳さん”も立派な立場であって、その場にいて妥当な人、それを行うに能うる人というポジションで好むと好まざるとにかかわらず、なすべきことをするのである。

子供の頃は、この家の娘というポジションがあるにもかかわらず、この場にいるのが妥当だという気がしないで、いつも両親の家に住まわせてもらっているような気がしていた。東京で一人初めて暮らしだして、初めて自分の家だという気がして(こちらが本来なら仮の住まいなのだろうけれど)、何もない部屋で一人ホッと安心して嘆息したことを昨日のように覚えている。

人と人間の違いは、魂の有無だという一節をどこかで読み、それは人と人との間には神様がいるからだという解釈が続けてしてあった。なぜかその一節を読んだ時、ふと、そうか、神様といるのが私は楽なのだなぁ、と思った。神様といる分にはそんなポジションなど気にしなくていいから。

滅私でいるのに、ポジションがいるなんてくだらないと思うし、ポジションを考えると”私は?”という問いが常に出てくることになる。それは、私という存在に実態があるからなのだ。

小さい頃、自分が透明人間だったらさぞかし楽だろうと思っていたことをふわりと思い出しながら、透明人間になれないのであれば、神様といるか、人間社会にいる時はそれ相応のポジションがないといけないのだな、と冷静に思ったりする。それは山には登山靴を履いていくし、パーティーにはピンヒールを、スキーにはスキー靴をというのと差して変わらないのかもしれない。

それが周りに訝しがられることなく(笑)自分らしくやりたいことをやるには必要で、それが満たされない時には、神様といるのが私にとっては気楽なのだなと思う。

 

(写真はお借りしました)

 

いいところを見つけることと。

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映画をよく見るようになったのは、淀川長治さんがなくなってから。今思うともったいないことをしたのかもしれない。でもまぁ、評論は評論だから。自分の感性でどう見るかが大事とはいえ、彼がどう表現していたのか聞きたかったなと思う。

ちょうどふと手元に落ちてきたように、横尾忠則さんの対談集を土砂降りの午後手に取った。いや、正確には数週間、表紙を眺めていたのだけれど今日、活字を読みだした。満月の日にちょうどいい内容。(謎)文字を読んでいて手がビリビリしない(本だから)のはいい。

その対談集の最初の相手が淀川長治さんだ。二人とも兵庫県出身で共通点が多い。編集の力もあるのだろうけれど淀川さんの飛んでる具合が素晴らしい。あんまり人の話聞かないけれど、相手や物事のことを言語じゃない情報で手にたくさん入れる人。

お二人の会話があまりにもシャーマニックなのがおかしい。

息を吸うようにあの世だとか無意識の世界や魂のことを語れる人をあまり知らない。私はパートナーに出会って初めて、思考がこんなにつながって、近しいスタンドポイントでものを見ている人も世の中にいるのだと驚愕し、また安心した。この対談集も多分そういう一冊なのかもしれない。

閑話休題

そういう部分ではなく、淀川さんの言葉に思い起こさせてもらったこと。

私が教育をしていく中でずっと大切にしていたことだし、生きる上でも大事にしていたことをサラリと彼は冒頭で話していた。人のいいところを真っ先に見つけてそれを伝えるということ。どこかホメようがあるのだという点。笑 例えば、見目も態度も悪くても、立ち方が良かったとか、座り方が良かったとか、ね。ちょっと立ち位置は違うけれど、すごくよくわかる。だけれど、その一方で美しくなかったり、あからさまに手を抜いていたり、愛情がこもっていないとかいう、自分が譲れない何かには決して引かない。

きちんと私はそういう人でいるかしら。
心が荒んで、できていないことはないかしら。
そんな風にはっと思ったのでした。

優しい目線と言葉にある凛とした物腰。

 

 

Stop & Go

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神様の言うとおりの人生をという話を延々と考えて、このブログにも書いていた。
カミサマノイウトオリ
カミサマノイウトオリ、バージョン2.0

カミサマノイウトオリにズルはなし。

あの頃の私はまだ初心者の域を出ず、毎日に”カミサマノイウトオリ”が息づいているのか、慎重だったように思う。そういう時間を過ごしたからこそ、滅私ということにもとらわれず、与える、与えられるといったものを凌駕して、解き放たれるような瞬間の連続を自らの生である、と認められるようになった。

とはいえ、生活なのである。生活とはそういった崇高であるはずの魂や意識と繋がりながら下世話なのだ。人間というものが生き、社会を構成している限り、汚れ、穢れ、悪も皆あるのだから。

そういうのに疲れた自分ばかり見ていた時は、出家をすればいいんだと思っていた。でもそこも同じなのだと気がついてから、もうそんな桃源郷を探すような愚行もしなくなった。ただ自分と自分の大事な人の心身、魂を美しく守るために生活をしようというシンプルさに行き着いた。欲なく生きるということは単純なのだ。

トップに載せた神様は”ハリハラ”というヒンドゥー教の神様で、ウィキペディアによると
”ハリハラ(Harihara)は、インド神話のシヴァとヴィシュヌの合体神。別名アイヤッパン。右半身がシヴァで、左半身がヴィシュヌ。ハリがヴィシュヌを意味し、ハラがシヴァを意味する。つまり、創造と破壊を象徴しているのである。
神々とアスラたちが、乳海を攪拌した時に、アスラ達がアムリタを神々に飲まれる前に全て飲み干そうとした。その事に気づいたヴィシュヌは、アスラ達を惑わすためにモーヒニーという美女の姿になって彼等を魅了し、その間に神々にアムリタを飲み干させた。その後、シヴァに一目惚れされ、一夜を共にする事になる。そうしてハリハラが生まれたとされる。ちなみにモーヒニーは『バーガヴァタ・プラーナ』ではヴィシュヌのアヴァターラの一つに数えられている。” 出典

この間、この神様にすっと導かれるような出来事があった。その時にはわからなくて、お名前を調べて合点がいった。相反するものを統合してただあるということ。何かをなすべき時には何もしなくても流れができ、決定的に事前にダメ出しが来る。今の自分に許されていること、導かれている場所は唯一無二なのだと示すかのように、破壊の神であるシヴァが鉈を振るう。

”無欲が一番強い”というのは本当なのだろうか。無欲から創造されるものは一体なんだろう。私には未だその答えがわからないでいる。もしかすると自分はただ、”カミサマノイウトオリ”に誰かに使命を受け渡すためだけにこうやって今あるだけなのかもしれない。そこで終了だとしたら?それでもいいのか、と問うことがある。”いいんじゃないの、それはそれで”と心のどこかで思っていたりする。

でも。もしかすると、私の気が急いているだけで、または気がつかないで、”カミサマノイウトオリ”に自分の使命も用意されているのかもしれない。いずれにせよ、ただ自分が器として上等で美しく、自らのありうべきに背かない、そんな魂のまま歩んで行ける道をポツリポツリとたどっていくだけなのだろう。

 

 

語るべきこと。

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小さい頃からおしゃべりだったのではないかと思う。

なんだかわからないけれど伝えたい思いや、理解して欲しいものがあって、それが書くという情熱や言葉にまつわる仕事に私を押し出していったように今は思える。

もう何ヶ月も集中して、今まで仕事にしていた言葉でない言語を独学で学んでいるけれど、どうしても今一歩身に入らない。本業の仕事ですら、なんだか足踏みしてしまって、仕事を断る基準値が随分上がって行っている気がする。

その一方で、読む、見る、考えるということに対してはオープンマインドだし、自由でいられる。多岐な内容のものをたくさん並行して読んだり、時間があると電子書籍が入っているiPhoneが手放せない。ガジェットオタクだった頃とは全く違う、iPhoneの愛用方法。これはこれでいい気もする。

 

自分の中にあって、なにより大事にしていた言葉というとっておきの糸を紡ぐための紡ぎ車がうまく回らない。紡ぐ機械がうまく回らないから、糸である言葉はなかなか出なくなる。

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「眠れる森の美女」はディズニーのアニメで好きな部類に入るのは、オーロラ姫が嫌な人じゃなかったかもしれない。そのオーロラ姫は、魔法にかかった紡ぎ針を刺してしまい、百年の眠りに落ちてしまう。

順風満帆なところで突然の悪意がオーロラ姫を襲い、それに抗うすべもなく、深い眠りに落ちてしまう、オーロラ姫。

でもそれは「死」ではなかったのが幸い。彼女を心から大事に思う人により彼女は永遠の眠りから覚めるわけだから、それが今このブログに無理くり言葉を紡いでいる私にも希望をもたせてくれる。

これは眠りであって死ではないということ。
言葉に対する思いと何かを綴るという気持ちは眠りこそすれ死んではいないのであれば、いつか行きを吹き返す時がくるはず。

多くの敵を倒し、オーロラ姫を救うために現れる王子様を今は気長に待つ時なのかもしれない。

とロマンティックすぎる言い訳かもしれないけれど、無力で何もできない自分を許してやるにはそういう演出も必要だということにしておこう。

眠れる森の美女は、アニメだけではなくて、バレエの題目としても有名。ストーリーをおさらいしたい方はこちら

 

 

シルクを身にまとうことでの変化。

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以前、知人に紹介された人がレメディなどの専門家だったのだけれど、体に触れるものはほとんどシルクにしていらっしゃるご様子もブログでよく紹介されていた。

美に対してかなり思い入れのある方でいらして、彼女の驚くべき徹底ぶりで保温、保湿、肌に触れる素材にものすごく気を使ってらっしゃっていたことをよく覚えている。

当時の彼女の足元にも及ばないのだけれど、シルクの凄さぐらいはお話できるぐらいになったかなぁと思う。写真は、とあるブティックの手織りシルク。ショップオーナーの女性に、あるシルク生地を持っていくと”あ、これは機械織りのタイ製ね”とすぐ言い当てられた。彼女のところはシルク製品がすくないのだけれど、それでも御用達のシルクの織物工房があるらしい。私が懇意にしている小さなブティックは皆自分の織物工房を持っている。これは実はすごく贅沢なのではないかしら。

この国だと、値段の分類は厚さ、手織かどうか、染料がヨーロッパかタイかで大体決まってくる。草木染めもあるけれど、日本人のNGOのものが中心。普通のブティックで見ることはない。
だいたいこの国だと生地とサンプルを持ち込みさえすれば5ドルで仕立ててくれる。

シルクの効果はサイトで見るとこんな感じ。
1 人間の肌と同じタンパク質で自然界で最も細い繊維。
2 吸湿性、保湿性、速乾性、保温性高い。これは本当に特筆。速乾性は綿の1,5倍だそうです。
3 18種類のアミノ酸で形成されているそうで、皮膚細胞を活発化させるので美肌効果や皮膚病が軽減することもあるそうです。
4 放湿性は高いけれど、保水量が高いので静電気が起きにくく、乾燥や肌荒れも起きにくいとのこと。静電気が起きにくいということはほこりなどを集めにくいのだそう。
5 紫外線を吸収してくれるので、お肌への浸透を少なくするそうです。シルクは吸収して蓄えた紫外線を徐々に発散して皮膚の消毒、減菌をして皮膚を丈夫にしてくれるそうです。そういえば、シルクのシャツを着てもらうようになって、身体の湿疹が消えた人がいました。
引用元:http://plaza.rakuten.co.jp/cloverB/013019/

手洗いでゴシゴシと洗ってあっという間に乾くのも、暑い国にいる時には本当に便利。さらりとして艶やかで、手織りのシルクで気持ち織りが厚い(3プライぐらいかな)なら透けないし、本当にいい。

昔は女性のストッキングとか皆シルクだったようで、きっとセクシーな肌触りで素敵だったのだろうなと思う。日本ではシルクが高級品扱いすぎて、大層なものになっているけれど、最低限の手を入れれば、長く心地よく、体にもよいものがいろいろあるのだなぁと思う。

バンコクの有名なお店のシルクの生地もワクワクしたけれど、ここのローカルで手に取るシルクの存在感がなんだか愛おしくて好き。

男の人がシルクを身につけるの。実はかなり良いのではないかと思う。シルクの下着を身につけるだけでも、先に述べたような効能があるし、お洗濯も簡単だし。タイだとお土産物屋さん的なところでも売っている。笑

以前、フェイスブックのビジネスグループに参加していたら、そこのメンバーの男性ほとんどがユニクロの下着で、あれは便利だと絶賛していた(早く乾くとか安いとか)。人と同じというのは安心感かもしれないけれど、自分の体に良いものだとか大切にものを扱うということとか、全てビジネススタイルや生き方にも投影されてくるのではないかしら、と思うのだけれど。(それにセクシーじゃないね、笑)

シルクを身につけだすと、体が正直になってくるというのが初めの印象。皮膚が自己主張始めるという感じ。これは好き、心地よい。これは嫌。その声を聞かずにその他の理由で身にまとっていたものに、明確にYes,Noを出されるというのが真相。そこから始まる変化の物語は新しい自分を知る楽しみといってもいいと思います。

まだまだ、シルクについて語りたい気分ですが、今回はこれくらいで。

身に合ったもの。

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フリーランスで仕事をし始めた頃に、当時人気のアナウンサー(今は大御所)がかいた恋愛もののエッセイが人気になった。彼女の文章力と表現力を持って織りなす様々な男性との恋愛についての持論はあの国の女性エッセイブーム先駆けとなったと言っていいだろう。

あまりにも辛口で表現が面白いので日本語にしたら話題になるかもしれないと数冊読んだのだけれど、その中の一冊に「合わない男といるのは、カップの合わないブラジャーをつけているようなものだ。」という一節があった。女性にしか感覚として理解できない許しがたい不快感の表現として今でも忘れられない。

実際問題として、合わないサイズのものを使っている不快感というのは、おそらく人によってまちまちで、私なんかは個人的にとても不快で仕方がないけれど、甘んじていると慣れてくる。だらだらと合わないものを許す体に自分がなっていっている気がしていた。これはある意味恐怖。笑 合わないものを使っていると「これでも実はいいんじゃないか」と思ってしまうのだけれど、実は違う、やっぱり全然違うのだ。

合うもの、フィットするものは体がしゃんとしてより自然体で心地よくいられる。

合うものを使っていると体が喜ぶというのは何も下着や靴に限ったことではないのだろうけれど、より肌に直接触れるもの、長く使うものほどその差が大きいし、そういうのに無頓着だとそれが外にも実は現れているのかもしれない。

でも実は自分に何がどのサイズが「合う」かを知らないと、こういう喜びというか、「合う」ことで得られる開放感を体験できないのではないかしらと思う。

道路状況の悪い国で、ピンヒールを封印していたのだけれど、履いても大丈夫なチャンスを逃さず、週に何度か足を入れるようになると、足がちゃんとピンヒールに「合って」くれる。この心地よさ、もう何年忘れていたろうという感じ。

肉体の持つこの感覚はちゃんと風化せずに残っている。自分らしく、美しくある有り様は自分の中にちゃんとあるのだという証でもある。

そんなことを思いながら身繕いをしていると、これって人との繋がりでもそうなのではないかしら、とふと感じる。自分にフィットするものを知らないと、「これでいいのだ」と思ってしまう。自分に本当に合うものを知れば、もう「これでいいよ」とは思えない。最善は最適ということ。

(写真はお借りしました)

 

 

 

 

波動を干渉させないために

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最近、波動についてもう少し深く学びたいなという気持ちが強くなってきている。

波動というのは、体の中に入れたもの、周りに触れているもの、全てに影響を及ぼして波紋のように形を変えてそのエネルギーを周りに伝えていくのだと思う。

自らがそのエネルギーの発信源として良い波紋の中心になることは、当然だし、自然心がけるところなのだけれど、人の生きる社会に生活するということはやはり様々なものに触れるということ。自分の中からも絶えず汚れたものが浮き上がってくるのだ。だから浄化して、汚れる存在である自分を常にクリーンアップしようと心がける。人間が生きるということの基本だと今では思っている。汚れる、だからキレイにする。この繰り返しで日々は成り立つのだ。

人は「汚れない」ということはないのだから。
いくら、いろいろな波動が身の回りにあっても、自分はそのバイブレーションに影響されたくないなとも思う。これも自然なこと。いつも身ぎれいにいる心算は、いつも整理整頓して、自分の身に置くものとそうでないものをきちんと選ぶことにあるのだから。

とはいえ、波動というバイブレーションにそんな選択権があるのかというと、結論から言うとあるのではないかと思う。波動のトーンを揃えないこと(なんだか昔言葉を教えていたことに通じる)で、そのトーンにはまらないでいる。

実はそれを言葉にしてそぎ落とすパワーがあるのが六根清浄の大祓だと感じている。
具体的な文言を読んでもらえれば、私がお伝えしたかったことの意味を感じとってもらえるのではないかと思う。

事実、六根清浄の大祓を読むと体の表面にバリアのようなものが作られるように感じるのが私には心地よい。何を見、聞き、触れ、感じようともそれは私を絶対的に侵すことはないのだという安心感をこの大祓を奏上することから得られるのだ。

この感覚、共有できるなら嬉しいなと思います。
今回お伝えしたのは、大祓の前半の部分。後半はまた違う意味で素晴らしいエネルギーをもたらしてくれる言葉が詰まっています。その話はまた今度。

六根清浄の大祓

あまてらしますすめおおがみののたまわく
天照皇太神の宣はく
ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり
人は則ち天下の神物なり
すべからくしづまることをつかさどる こころは すなわち かみと かみとの もとのあるじたり
須らく掌る静謐心は則神明の本主たり
わがたましいをいたましることなかれ このゆえに
心神を傷ましむること莫れ 是の故に
めにもろもろの ふじょうをみて こころにもろもろの ふじょうをみず
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
こころにもろもろのふじょうをおもひて こころにもろもろのふじょうをおもはず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
このときに きよく いさぎよき ことあり
此の時に清く潔き偈あり
もろもろののりは かげとかたちのごとし きよくきよければ
諸の法は影と像の如し 清く潔ければ
かりにもけがるることなし ことをとらば うべからず
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわち
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は則ち
ろくこんしょうじょうなり
六根清浄なり
ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり
ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに
万物の霊と同体なるが故に
なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし
為す所の願いとして成就せずといふことなし
むじょうれいほう しんどうかじ
無上霊宝 神道加持

✴︎ここではろくこんしょうじょうとなっていますが、私は普段ロッコンと発音しています。