情景の断片という執着

2014-04-04 16.46.34

私のもうそんなに短くない人生で、情景の断片がたくさん重なって冊子のようになる、なんて言う経験はなかった。

誰とであっても、どんなことであっても継続性をもって意味付けすることや記憶していることがあんまりない。結果的になにか一瞬、刹那にそれを閉じ込めること。その出来事自体に意味を持たせるのではなく、その出来事やそのときの感情が思考やテーマとして考えていることに彩りや気付きを与える。

だから、思考やテーマとして考え抜いている事象に関わらないものでインパクトのないものはすべて記憶から消えていく。私という身体は現実の世界で生きているのに、いつも自分が抱えているテーマについてばかり気持ちも頭も使っていたように思う。『心ここにあらず』でいたと言えばそれまでなのだけれど。

そんな風に虚ろに生きていたからこそ、死を恐れなかったし、現実や目の前にあるものに価値を置いていなかったような気がする。

私が長らく親しんで来た仏教の教えの一つに『何にも執着をもたない』という教えがある。執着をもたないということは、突き詰めれば生きることにも執着をもたない、言い換えればいつでも死ねるということだし、今の現実目の前にあるものをすぐに手放せるということだと思っていた。

そんなことは在家でやるんじゃなくて出家して修行の中でやるべきことなのかもしれないけれど、『出家するには人生の経験値が足りないから』と気がついた18歳のときから『いつか出家したときに人の痛みや悩みにちゃんと思いを馳せるようになりたい』と思って現実世界という在家社会で暮らすことを選択した。

現実世界にいても執着のある自分を醜いと思ったし、生きることに執着して何かをするのも間違っているような気がしていた。だから必要とされることを確実できる自分になる。それが私の目指すところだった。

自分の能力を高めないと求められることができないから、能力を伸ばすことだけには執心することを許せていたのかもしれない。

今思えば、なんて言うバランスの悪い生き方をしていたのだろうと思う。

そんな風に執着しないで生きることを旨としていたのに、忘れがたい一瞬がある。
その一瞬が一枚の写真のように情景とそのときの感情とともに押し込められて、私の記憶のすみっこに置かれている。

 

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