「対の法則」幸せの基準

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 幸せにも「対」の関係があると気がついたのは最近のこと。

「幸せにする」「幸せになりたい」と人がいうとき、その幸せの基準はどこにあるのだろう。

「自分が望むべく状態」を幸せと定義したとしても、それが果たして皆同じとは限らない。それは相手を幸せにする、と思っている時だってそういうことになる。

一人で幸せを追求するというのはあまり現実的ではないので、相手のあることとして仮定すると、当然ながら「相手の意向を十二分に叶える」という幸せにする方法と「自分が思う幸せな状況や環境に相手も自分も置かれるようにする」ということがある気がする。

この「幸せの基準」が対であると思ったのは、どちらか片方だけだと上手く行きにくいなぁと思うからである。例えば、相手の意向を叶えたいと思う二人が揃うと、何も決まらない。日々漫然とした「幸せ」を得られるということではいいのかもしれないけれど、幸せを追求するというより幸せに「在る」近い。積極的な「幸せ」ではなく「どちらかというと「満足」に近い。もちろんそれが悪いともいわない。

その一方で「自分が思う幸せな状況・環境を叶えていく」というのは、相手が自分の思うその状況や環境を是としない限り、相手の幸せにはつながらない。双方が「自分が思う幸せな状況や環境」を目指してそれぞれの方向に走れば、「あなたの意向ばかりをきいている」という、幸せというにはほど遠い、不満やるかたない感情が噴出するだろう。一方は、自分の描く幸せに相手も一緒に足を踏み入れれば、幸せになると思って努力しているにも関わらず、である。もちろん、同じ方向を向いて走っていられればよいけれど、ぴたりとその想いが重なるなんて簡単なことではない。

この幸せの定義のちがいに気がついた時、「なんて悲しいことなのだろう」という気持ちが胸に渦巻いた。

家族であれパートナーであれ、相手を幸せにしたい、幸せになりたいという思いが全く別の結果を生むことになるなんて。
どちらのタイプの「幸せの基準」であったとしても、同じタイプの人との幸せの追求には幸せになるということ以外に調整すべきことが多すぎるのだ。

相手の幸せを自分の幸せだと思えるということは何も相手に追従する訳ではない。積極的に幸せにしていくことでもある。でもそれは相手の「幸せ」の形がはっきりあればこそ、又は自分の中で何をすることが相手に幸せを感じてもらえるかをきちんと見極められるか如何(いかん)だろう。

きちんと自分と違うタイプの相手と一緒にいても、どちらかが相手を凌駕することになればまた関係性は変わってしまう。相手の意向を叶えすぎて、相手がダメになるってことは現実に起こることだから。自分の「幸せ」を求める強さにあった相手、相手にあったバランスが必要なのだろうかとも思う。

自分の身近な人がどちらの「幸せ」を望むタイプなのか、自分はどちらなのかを知っておくことは意外と大事なことなのではないか。誰かの願いを叶えることが幸せな人に、何か具体的な幸せの形を求めても困るだろうし、その逆も然りだ。相手が幸せと感じるありようを把握した上で、「幸せ」だと感じられるように歩んでいけることが最善だし、互いが互いをいっそう幸せにしていくという循環を生む。

相手を自分勝手だとか責める前に、果たして自分は、相手は何をもって幸せと感じるのかを見つめてみることはそう悪いことではない。シンプルに「何を幸せと感じるのか」の差異は善でも悪でも是でも非でもない。もちろん性別に帰属するものでもない。

バランスのよく「幸せ」を分かち合い、「幸せ」を「幸せ」と双方が感じられて、感謝できるようになるための一助となるだろう。

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