語り得るもの。

2014-10-22 17.23.35

あっという間にもう11月に入ってしまった。

先月あたりから、一年かけての変化に加えて新たに関心を持って勉強している領域・思考のスピードや気付きがあいまって言語化するのが追いつかない。

日々のパーツではその気付きの深さではわからないし、その気付きだけ抽出しても普段このようなことを考えていない人にとっては『何のことだろう』ということにしかならない。ある程度誰かに読んでもらうことを想定するには『熟成』という『こなし』がますます必要になって、残しておきたいのに残しておけないという悩ましい状況が続いている。

日々の各論に意味がない訳ではないけれど、包括的に連動して理解をしないと自分を自分足らしめる『軸』というか『芯』にまでたどり着かない。何でもタイムラインやハウツーものや誰かのシェアした情報にコメントを載せているだけでは仕方がない。それだって誰かのコピーアンドペーストなのだから。

タイムラインをみていると、シェアーする人の知識のように、書き込み主の知識のように考えているそれらの知識だって、所詮その多くはどこかからのコピーアンドペーストでその人がいろんな想いや体験をして吐き出したものではない。

まぁ、そういうのが好きな人たちはそれでおててつないで同じ魂なのだろうからそれも由だろう。
そういう仲間に入れなかった自分を『なぜ』と思い続けていたけれど今は入れなかった理由もよく理解していて、これでよかったと思っている。

だから、私のように淡々と考え続けることや違いを持っていくことは大変だけれど、それなりに意味はあるし、多少なりとも私の書くものが読む人の心の中の何かに寄り添えればいいなとおもっている。

だからといって、『あなたの書いていることがわからない』とのたまう思考停止な方にわかるように書くつもりも、言葉を教えているときのように『あなたもすごいね、素晴らしい、愛だね』というつもりもない。だって人生の思考を続けるのは岩山を登るような孤独さがある。
そこに必要なのは小さな明かりやほっと安らぐ温かなコーヒーだったりする。そこにふかふかのベッドは不釣り合いなのだ。

魂の修行をしている同士、お互い頑張りましょうという気持ちでその歩みを進める、気付きをもらうことと、歩みを助けられることとはちがうと思っている。言葉を教えていたときもこういう気持ちが根底にあったから、教えられる側は窮屈に厳しく感じていたのだろうとも思うけれど。言葉の学習にしろ魂を磨くことにしろ、歩みは誰にも助けられないのだ。一歩一歩、自分で決めて進んでいくしかない。

言葉を教え始めて10年程で独自のメソッドを作り上げたけれど、最終的な目標はここだろうと思う。メソッドとはいかなくても、メソッド的な俯瞰した概念を提供できればと思う。私のメソッドは『わかる人にはすごくわかる』方法論でかつ合理的に愛に満ちあふれたものだった。考える習慣を持っている人なら納得できるものになっていたと思う。

私のメソッドでは理解できなくても『その通り』やればできるのですごさがわからない。身に付いているのだけれど、それが『大変さ』を経ないために実感がわかなくて評価されなかった。(マイナー言語だから実践の場が限られていることもデメリットのひとつだった)

だから、今考え続けていることが結果、何かまとめられたとしてもそういう結果だけは招きたくないとも思っている。

わかる人にだけ、しっかりと伝えるべきことを伝えられるように。そのために隗より始めよ、粛々と修練をするに尽きるのだろうと思っています。『行動だけがすべての証』という、私の大切な信条の元に。

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