行動という証

2014-06-26 17.23.36 (meaw-MacBook-Air's conflicted copy 2014-06-27)

どちらかと言うと言葉をとても大切にしてきた今までの人生だけれど、実は言葉とあわせて自分が意識的に行うことで意味をもたせることをしてきた。

言葉ばかりに意味や価値をおいてがっかりすることは数限りなくあった。
もしかしたら、自分も無意識にそうだったのかもしれない。

こんな風に行動と言葉で表してもそれを理解してもらえない相手はともかく。

何にありがとうと感謝しているのかは言葉でないと伝えられない。
愛しているならそれを相手に言葉以外でどうしたら伝わるのか。
親子でも夫婦でもパートナーに幸せになってもらうように自分が行動することで結果的に自分の愛や感謝を伝えたいと思うと、表現の方法は無限にあるような気がする。

感謝しているとおりに触れて伝えるたび、相手が自分にとっていかに大切か、相手が自分に与えているかけがえのない影響を再認識する。言葉で伝えることのもう一つのよい影響なのだろうと思う。

学生時代に憧れの人に大学4年間手紙を書き続けて、その人と結婚した友人がいた。彼が送ったのは「手紙」と言う言葉なんだけれど、毎日のように手紙を書き続けると言う行為が彼女の心に届いたのだろうと思う。彼の手紙は「言葉」であり「行動」でもあったのだ。

もちろん、それを相手が「愛されている」と受け取る感性というか共通言語を持ち合わせていなくては何をしても意味はないのかもしれないけれど。

身体を日々動かすことで身体が締まって筋肉がついていくのと同じように、行動という愛情なり思いを伝えるやり方がどんどんと自分や相手の心や暮らしに浸透していくことが信頼を形作っていくのではないかとようやくわかるようになってきた。

今までの一方通行な愛や生き方ではわからなかったことでもある。

改めて誰かを大事にしたり、愛すると言うのは広義の意味での人類愛をのぞいて、愛とはそれほどたくさんの人に深く与えられるものではないのではないと気がつく。

もちろん、子供への愛とかそういうのはまた違う次元なのだろうけれど。
本質はそう変わらないのかな、とも思う。

感謝や愛情にまつわる価値観が同じであることが信頼を築き上げるための基本だから。

言葉が結果嘘になったり、叶わないで終わることがある。
それを無為に責められることも、自分で悔しく思うこともあろう。
行動は相手がそれをどう読み取るかは別として、自らの思いの発露の証としては嘘偽りのないものであるはず。私は、その一点に大きな価値を置いている。

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