愛の有り様(ありよう)

2014-09-11 14.14.11

先月だったろうか、自分の目指すありうべき姿と生々しい自分の消えない欲みたいなものが共存できないでいるのを改めて感じて、折り合いを付けるにもどうしようもない気分でいた。

挟持すべきものがなんであるのかを見極めていればいいという結論に達しつつ。

こういう悩みは一人でいきていたり、どこかで隠遁生活を送っていれば全くもって感じる必要もなかったろうと思う。目指す自分があまりにもストイックすぎて、実世界の自分と折り合いがつかない。

そんな中でふと思う。
もうそんな人間的な感覚をもって生きるのはやめよう、と。

苦しむのがイヤならば、そんな感覚まで自分を貶めずにいればよいのだと。
人間として、一人の女として幸せだとかを求めるからそのロジックにはまってしまう。

そういう人生を生きている別な存在として自分を見守り、周りと関わり、大事にしていくことができれば、そのロジックに陥ることはない。

私のありうべき姿と競合することもなく、ただ今生をいききるための方便としての自分の心身だと思えるようになってきた。

カミサマノイウトオリを体現していく生き方には変わりないのだけれど、自分の中ではもう少し積極的な体制である。神様が私に伝えるものを待つのではなく、神様が思うであろうことを行動していく、自分がその存在を体現すると言ってもよいのだと思う。

「愛」ということの深さを思うとき、誰かを心から大切にしたいと思えば思うほど、愛をもって何が許せて許せないのか。自分の譲れないものを挟持することにどれくらいの意味があるのか。別に差し迫った問題があった訳でもないけれど、避けては通れない問題だった。

1日瞑想三昧をしていると「菩薩行」と言う言葉が降りてきた。
のこりの人生を「菩薩行」だと思って、生きていきなさいということだと素直に思えたし、そのスタンスでなら「避けては通れない問題」ですら、問題でなくなっていった。

自分の心に常にあるわだかまりや解決すべき問題が限りなく小さくなくなってゆくのがわかる。

人生を味わい尽くすためにのこりの現世での時間をと思っているけれど、魂は人間社会で多くの人が苦しむようなことに悩み苦しむようなことは望まないらしい。

この境地までいけば、のこりの人生で心の平安を大きく乱されるようなことはないはずだから、ずっとこういう心持ちでいられるように、美しい魂でいたいと思う。
次はそばにいる人にいつも穏やかな気持ちでいてもらえるような鏡のような存在であるように。その輪が少しずつ広がればと思う。

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