ここではないどこか

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信心深いからなのか、なんだかわからないけれど、「あなたはきっと前世この国にいたのよ」

そんな風にはじめて言われたのが、いつだったのかもう記憶にない。

「前世は〜だった」という言い方になじみもなく、この国や人を理解することが何より自分のいきていく処世術だった頃、そんな風に言われると「うまく馴染めているのかもしれない」と思ったものだ。
嬉しいとかイヤだとか言う感覚よりもむしろ「この人たちは自分を理解してくれていると感じている、自分たちと同じように扱えると思っている」という風に解釈していた。それは何より、彼らを理解するためには大事なことなので、ハードルはクリアできていたのだろうと思う。

じゃぁ、自分が具体的にこの国にいたような実感があるのか、というとそんな既視感(déjà-vu)を体験したこともない。
生徒さんが高名なこの国の占い師にみてもらったら、前世がこの国の偉い人だったことがあるのは聞いたけれど、自分はそう言われたこともなく。いってみれば、私にとってこの国の人たちが私にいう「あなたの前世」話は、私にとっては彼らの体のいいお愛想以上の意味を持たなかった。

数回この国に来た人や、この国の料理が好きな女優さんが「私前世はこの国の人だったに違いない、はぁと」なんて書いているのをみていると、むしろ彼女達の方がそうなんだろう、って思う。

会社に派遣された訳でもなんでもないのに、自らの意思で自主的にこの国のために何かをしたいと思って何十年もいた訳だけれど、そこに因縁めいたものを感じない理由があるのかもしれないと思う。もちろん、今は「何かしたいと思っていた」という過去形だからこんな風に書ける訳だけれど。

ちょっとおかしな言い方をすれば、「愛されていると感じない」というところだろうか。

土地というのはそれぞれにパワーがあって、意思があるから住む人も繁栄させる人も選ぶんだろうと感じていて。そういう風に思うから、日本の人は引っ越しするときにはきちんと地域の氏神様にその旨を報告する。この国にも「国の鍵」「国の柱」があって、県庁所在地にもそれぞれ地域の守り柱がある。お仕事をそこではじめるなんていうときはそこでお願いをするのである。日本でも欠かさずお礼と報告をしていたから、この国でもある方から聞いてこの国でのビジネスの許可と繁栄を求めるお願い儀礼をやったこともある。

傍から見れば、私なんてどっぷりこの国にはまって、やっているように見えていたろうけれど(苦笑)自分では全くそんな感覚はなかった。この国が好きで、何かしたいと思うのにいつもスッキリしない何かがつきまとう。日本ではあまりない感覚だったように思う。それを払いのけるように、足りない何かを埋めようと必死になって努力していたなぁと今ならよくわかる。

自分の中にいろんな変化が起こりだした頃、「私はこの国に愛されてない気がするんですよ」とぽろりと知人の社長さんに食事のときに言ったら、「自分が愛してれば十分じゃないか」というようなことを言われた。私は相思相愛のエネルギーを大事にするから、そんな不感症な一方通行なところは向かない。土地のバイブレーションや自分が生きる場所と自分との関係性に関心や理解がない人に話したおかげで、はっきりと自分の中にあるずれを見いだすことができた。

その時、小さい頃から「ここではないどこか」をずっと探していて、この国だって「ここが探していたところだ」って思えないのに、どうして私は「ここではないどこか」を探して来なかったんだろうと愕然とした。

私にとって「ここではないどこか」というのは桃源郷のようなもので、そこにいれば安心して疎外感を感じることなく穏やかに暖かくいられる場所をさすのだけれど、確かにここはそのどれにも当てはまらない。

そう考えると、私がこの国で前世を過ごした訳でも、愛されていると感じないのも至極当たり前なような気がした。

それでもこの国とこんなに長くつきあうには、何らかの理由や意味があったんだろうと思う。いただいたものに対する感謝の気持ちとできる限りのお礼はしたけれど、もうそろそろ、私にとっての本当の「ここではないどこか」を探す旅に出ようと思う。
きっと、「ただいま」って思える場所があるはずだから。

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