業と扉

2014-06-02 18.54.07

人生の半分ぐらいすぎてくると、自分がどんな業を持って生まれて来たのかみんなうっすらわかっているのではないかと思う。

私は多分、それに気がつかなかったなら、幸せかどうかはともかく平凡な人生を送っていたんだろうと思う。

大きくわけて二つぐらい、私が背負ってきた業があるんだろうと思っていて。

その一つがきっかけで、私は海外に行ったり、自分の国ではないところに住んでいたりしているのだろうと思う。

もう一つは誰にも話したことがないけれど、今のような環境にあるのはこのせいだろう、と思っている。

二つ、といっても結局は密接につながっているし、深く影響を与えていて。

普通に大学を出て、普通に会社に就職して結婚するような環境に生まれたのに、そうできなかったのには、何かしら因縁があったんじゃないか、ということである。

私がこの人生で、いつでも死んでもいいと思って毎日を送っていたわりには、結構誠実に自分の背負ってきた業に向かい合っていたんだろうと思う。自分がそうすることや感じることに理由がつかないけれども何らかの因縁や関連を感じるものを、見たり見なかったりした時期もあったかもしれないけれども、結局は総ざらいでこの数年の間に痛いほど直面させられ、イヤになるほど考えさせられた。

その原因を探っていくといつもこの二つにたどり着く。

だから、これを【業】と呼ぶことにしたのですが。

誰でも多かれ少なかれ【業】と呼べる何かは持っているのだと思うのです。それに気がつくかどうかは別として。

【業】があるから良いとか悪いのかではなくて、どちらかというと、神様が「今生きてる間にこのことをよーく考えなさい」ってだした課題テーマのようなものなのではないかと思う。

どれだけ考えるべきかは与えられる試練とか状況によるのかもしれない。

それでも考えずに逃げ出したり、直視することをやめたりすることもあるだろう。
私だって、逃げていたことも、直視しないでいた頃もあった。言い訳ばかりしていた頃もある。

でも面白いもので、その業に向き合っていっぱい考えて、行動したときにふと意外な扉が目の前にあらわれる。

誰にでも現れるのかどうかはわからない。だけれど私の前には扉がどーんと現れた。

鍵を見つけるかそのまま扉を無視するのか、簡単ではない選択肢だったと思う。今思えば。
だけれど、本当に藁をもつかむ気持ちで。大ばくちを打ったつもりで。
もう崖から身を投げてしまう気持ちで私はそのときに扉の方を選択した。

実はそれを選ぶしか選択肢はなかったのかもしれない、今思えば。

扉の前で待たされることも、新たな階段が出てくることもある。
扉があっという間に開いて、今まで完全に諦めていたものが手に入ることもある。

いずれにせよ、自分の人生に繰り返し起こされる何かにはきちんと逃げることなく対峙した方がいいんだろうなぁということだけはわかる。

あのときに扉じゃない選択をしていたら、どんな人生だったのか想像がつかない。
だけれど、今のような心境やモノの見方や、自分でなかったことには疑いがない。

泥の中から出る蓮の花のように。
漆喰で固められた仏像から黄金の仏様がその姿を現したように。

みにくいアヒルの子が最終的に白鳥になったみたいに。

その醜さや面倒くささを乗り越えて、自分を見つめていけばそれが花開くっていうことがあるんじゃないかなぁと思う。

全く想像しなかった、今までの生き方では届くはずもなかったものがいきなり、目の前にやってくるってこともあるんじゃないかと思う。

もちろんそれはドラスティックに一夜で変わるものではなく、少しずつ自分の意識を変え、自分の見る物を変え、環境を変え、あらゆるものが「整う」その瞬間まではもしかするとわからないし、もしかすると修行は続いているのかもしれない。

時が満ちたとき。自分がクリアしたものの大きさに気がつくんだろうって思う。

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