再定義

2014-03-18 10.02.08 copy

子供の頃、物心ついた10歳の頃から日記をつけていたという話はもうすでに書いたかもしれない。

その時に綴っていたことなど本当に些細なことなのだけれど、隠れたテーマは【孤独と淋しさ】だった。家にいても学校にいてもいつも孤独だった。周りの友達はそんなこと全く感じていないような風だったし、もちろん誰かにはなせることでもなかった。

孤独なんていう抽象的なことで表現できないから、クラスの誰かが好きかもしれないとか、そういうイメージみたいなところで「淋しくない状況」みたいなのを想定していたりしたように思う。小学校低学年のときに好きになったF君。彼のことは全く覚えていないけれど、お母さんのことをよく覚えている。女性の割には大きくてやさしいお母さんで、学校に来ているのを見つけては彼のお母さんに抱きついていたから、彼よりもきっとお母さんが好きだったんだろうと思う。

学校や家でもいつも淋しいという思いと一緒にいたと思う。

孤独だとか淋しさなんて自分で起こせる感覚ではないから、きっと何かそう感じさせる経験が記憶の奥にはあるのかもしれない。でもその根源はわからないままに私は自分の中にしっかりと【孤独】というものを認識していた。

小さい頃は自分の中にある孤独が暴れだして、自分でも手が付けられないような感じでいたことをうっすらと覚えている。小学生の高学年の頃は包丁を持ち出しては「死にます」って言って騒いだことも一度や二度じゃなかったと思う。自分じゃない何かがどうしようもなく泣きわめいて無茶をしているような感じだった。

「死ねるもんなら死んでみろ」と父にいわれたことを今でもはっきりと覚えている。死にたくなかった、というより、その勇気がない自分にふがいなさを感じた。
学校でも家庭でもそういう風に行動せざる得ないでいる私のことを理解してくれる大人などいる訳もなく、成長するにつれてそんな風に発散することもできず、ただただ日記にその思いを書き散らすようになっていった。

時代的にいじめが社会問題になる頃で、学校ではひどいいじめも受けていたから、あまり目立たないようにびくびくしながら生活していた時間も長かった。ひょんなことでものすごく驚くのはもしかしたらこの時の名残かもしれない。

家庭も厳しい家だったので、共働きの両親が帰ってくると緊張していた。何に叱られるかわからないので、家でも親の前にいる時は緊張して、びくびくしていた。叱られないように先回りして行動しておくようになったことは今となれば有り難い。

孤独と淋しさのあまり不意に感情的になったり不安になることが多くて、誰かといればそれが解決するのかと思っても、淋しくなくなるどころか余計淋しくなったり、淋しさからくる感情の起伏が喧嘩の原因になったりして上手く行かなかった。

大学生のとき、真剣に「孤独」と向き合ってみようとたくさん本を読んだ。その中の一冊、串田孫一さんの「孤独の生き方」という本を読み終えたとき、孤独というのは自分の存在そのもので、死ぬまで内在し続けるのだから、うまくいなしてつきあわないと仕方が無い、と得心した。

思えば、子供の頃からいじめられたり、家でも緊張して暮らしていたり、留学するといっても一人誰も関心のない東南アジアに行くし、留学先ではお妾さんの家で所在ない思いをするし、いろんな人が集まるアルバイト先ですら宇宙人って呼ばれていたぐらいだから、どこかに帰属している、仲間であるという意識がうまく持てなかったのかもしれない。

孤独というのは常に身の回りにあるものだという発想の転換は淋しさの代わりに、「一人生きて一人死ぬ」みたいな感覚をものすごく強めていったように思う。もともと、帰属意識が希薄だから「私がいなかったら上手く行くはずなのに」と考えがちなところに「人は皆一人」みたいな意識がつくと、人間関係についてはあきらめが早くなる。身を引くということが苦でなくなるのである。それは帰属していない、という意識や自分の能力や存在を卑下していることからきたものなのかもしれない。

あまりの引きの早さに、「引き止めてほしいが為に、思い通りにしたいがためにそう言っている」といわれることもあったけれど、自分は所詮一人で、枠外の人間だから丸く収まるのならそれが最善ですと素直に思えた。私はそんな駆け引きのテクニックが使えるほど賢い人間でもない。それは当時も勉強していた仏教の手放すということをよしとする教えに深く共感していたからかもしれない。

だからだろうか、離婚してたった一人の戸籍になった時、安堵のような感覚を持っている自分がいた。一人でいるということは孤独であっても何より疎外感を感じなくてよい。

「淋しい」という感覚を持ってからかなり長い時間をかけて孤独と向かい合い、葛藤してきて、共存するようになった。

孤独とうまく共存していくと、孤独とは自己との対話だと得心したのでずいぶん孤独を楽しめるようにもなっていた。他者との何かを深めたり帰属することを求めなければ、比較するものがないのだから孤独を感じる必要すらない。そのとき、私にとって孤独は淋しさを生むものではなくなったのである。

誰かといても孤独感を持ったり、淋しいという感情は生まれる。大切な誰かと離れても淋しくなるが孤独感は生まれない。この差異は一体どこから生まれるのだろうか。

一人生きて一人死ぬという孤独をいくら受け入れても、自分が崖っぷちに立っているような感覚に陥る時が全くなくなることはない。孤独というのは魂が安堵する先があるかどうか、なのかもしれないと思う。心から愛する人でも信仰でも魂を安らがせる存在があるということが、物理的に一人であるということを超えて魂を落ち着かせる。いくら隣に誰かがいても、魂を安らがせられないのであれば、人は孤独なのである。

淋しさというのは結局は過去に体験した温かな何かを渇望する感覚なのだろうと思う。人が人と暮らすときに必然的に生まれるぬくもりは誰もが知り得るはずの原始的な感覚として、人間にインプットされている。孤独よりももっと肉体寄りの自分ではない誰かの暖かさやぬくもりを感じることで得る幸せを求めているような気がする。

孤独に慣れることで孤独から解放されるような気がしていたけれど、タイトルを「再定義」としたとおり、孤独ではないという時、その魂は安らいでいられる状態をいうのだ。魂が愛で満ちているような。

孤独に慣れてしまっている私は、当初その変化に戸惑っていたように思う。当たり前のようにあった不安感を持たないで目覚める朝はなによりも穏やかだから。それは幼い頃から経験したことのないものだったのだ。

人は一人生きて一人死ぬ。確かにそれは変わらない。組織や家庭の枠の外にいる人生も変わらないだろう。だけれど、孤独でなくこの世に別れを告げられるのなら満たされた人生だったねといえる気がする。

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