申し訳なさとの共生。

2013-04-19 14.44.03

多かれ少なかれ、人生の中で自分のことを卑下したり劣等感に苛まれたりすることがあるだろうとおもう。

能力やテストの点数のように努力でどうにかなるものもあれば、美醜のように他人の基準だったり、経験値や知識の蓄積のようにある程度の時間をかけないとそれを自分のものにできないものもある。

いずれにしてもそれが自分の属性であることを受け入れてそれを向上させるか、劣等感として劣等感までも自分の属性としていくかは自らの問題であると思う。

ある程度長い人生を生きてきて「これを成し遂げた」ということをいくつも持つ人と、そうではない人がいるだろう。「成功体験」といってもよいと思う。

その「成功体験」の少なさが自信をもたせなかったり、自らの存在を卑下させたりするのであろうと思う。
私も今までそうだった。
いや、今でもそうなのかもしれない。

成功できなかったのは自分の能力の低さや運のなさや視野の狭さが原因だから、自分に帰するものだからそこについては望むとも望まざるとも自分で受け入れるしかないのだろうと思う。

だけれど自分の周りの人は、私のそれとは関係がないのに。

そんな気持ちがいつも身近な人に対して申し訳ない、という気持ちを持つ原因だったろうと思う。

簡単にいうと「自信がない」といえばそれまでなんだけれど、むしろ「こんな自分でごめんなさい」という感じでいる。

自分が大好きで、大事な人なのに、自分みたいな人間といることが申し訳ないなんて、あまりない感覚かもしれない。客観的に考えるとすごくアンビバレントな感覚だろうなと思う。

だけれどいつもこういう気持ちを持ち合わせていたなぁと思う。

理解しがたい感覚かもしれないけれど、基本的にこんな気持ちで誰かといたって幸せになれない。

わかっていてもどうしようもなかった。

そこから今、抜け出そうとしている自分がいるのは、やはり「信じる」という概念をここに来てがらりと変えられたからだと思う。「誰かを信じる」ということにはいろいろな段階があるかもしれないけれど、信頼という形で自分をなげうてたとき、それは回り回って自分のもとにやってくる。

申し訳なさでまた殻に閉じこもるのはそう言う人生を送ってきたら、そうしてしまうことの方が実は楽な選択なのだけれど、それをぐっとそのまま耐えることで、今までなかった「成功体験」のようなものが自分に生まれるのかもしれない。自分一人の時には耐えきれなかった何かを、信頼や愛情が一緒に支えてくれる。

ふと、殻にこもろうとした自分を何かが止めてくれる。
それは自分が孤独ではないという証でもある。
そのままの自分を受け入れてもらえているという安心感の現れでもある。

かといって、自分の過去の経験がぐっと素晴らしいものになる訳でも、成功体験が増える訳でも、見目形がよくなる訳でもない。

今ある姿を認めながら、ただ向上していくことだけに劣等感を使えるなら、それも悪くないのではないか、と思う。

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