魂とこなれたシーツの質感

2014-02-12 13.10.32

私の個人的な内面変化を全体的な流れとして追ったエントリーは、多少の反響があり。
辛そうだったもんね、という声だとかいろいろ。

「もっと気楽にしていたらよかったのに」ともいわれた。

そういう思いが全く当時の自分にはなかったであろうことを思い出して、一瞬言葉に詰まったけれど。

今思えば、いつだって緊張していたのだって、ずっと不安で仕方がないことの裏返しで、それをどうにかするために仕事だってなんだってむしゃぶりつくかのようにやっていたのではないかなぁと思う。あとで文句いわれないようにってすごく思っていたもの。

そこまでの緊張状態でいると、失敗だとかクレームがちょっとの修正のつもりででいわれたものでも存在意義だとか是か非かみたいなところにまでいっちゃうこともあったんだろうねと思う。

私みたいに、「安心」みたいなものと縁遠い人間はどうしても緊張しやすいと言うかリラックスが苦手だったからだろうと思う。オンオフ切り替えた方が効率もいいってわかっているのに、休むことにものすごく罪悪感があるからふらふらしていても仕事するし、眠れないほどに追いつめたりするんだろうと思う。

誰といれば、どこにいれば、何をすれば「安心」するか。
ちゃんとそれを見つけて、認識したのなんて最近のことだもの。

「魂」とか「肉体」が「自分の果たすべき役割」にフィットしているかどうかっていうのは、意外と大切なことだろうと思う。
そういうところでフィットしていないとずっと「疎外感」に苛まれて生きることになるから、そのころの私のようにむやみやたらな生き方をせざることもある訳で。

まるで、車が運転できないくせにカート場でカートに乗っているみたいなものだ。急ブレーキしたり、急発進したりぶつかったり、くるくる回ったり。本人はいたって真剣なのに。

そうこうしていると「魂」にフィットしたものが降りてくる時がある。その時は「私」には不相応なんじゃないか、ってずいぶん思った。
はっきり言えば「身に余る」という感じだったのかもしれない。だからあらゆるものを諦めてここに集中しようとする自分がいた。

受け入れるっていうことは諦めるっていうことと同義なのだ。
勝ち負けでいうと、負けを認めるっていうことを意味していると思っていた。
誰の手も借りたくないと思ってふらふらになっても一人でやってきたのだから、本当に負けみたいな感じだった。

今の私なら「ようやく魂にみあうものが来た」って思えてほっとしたかもしれないけれど。

当時の私は、諦めて負けを認める(正しくは藁をもすがる、なのかもしれない)っていう気持ちと、分不相応っていう両方の気持ちを持っていた。

でも今これを選択することが正しい、と直感的に思ったのは、その時はわからなかったけれど「魂」に沿うものにつながると知っていたのだろうと思う。

不相応なら、相応に磨いて行けばいい。そこに自分の生きる道があるのだから。

そう思える私にとって、その案件はもう「身に余る」モノじゃなくなっているのだろうなぁと思う。
ひとえにそれは未来がそこにあるからだ、ともいえるし、何かを諦めるのではなくむしろその正反対なのだと知っているからだろう。

気が楽であるっていうことは意外とやさしいことではないのかもしれない、実は。
波動だとか目に見えないものも含めて様々なものが影響しているから。

ひとえに「カミサマノイウトオリ」と預けてしまえれば、それが一番気楽になれるのだろう。笑
「カミサマ」はきっと自分の一番フィットするものをご存知で、それを私の前にだしてくださっているんだから。

買い立てのシーツよりも何度も洗ってこなれた質感のシーツの方が心地よいように、私が気楽である環境がもっともっと心地よくなって行くんだろうと思う。それは何より私が欲しかったもので満たされている場所であるはずだ。

フィットするものと自分仕様にこなれているというのは似ているようで実は違う。
自分の魂に合ったものでも、はじめてまとうものであれば、どんなに嬉しくても、最初は気後れしたり戸惑うものだ。
そんな感覚だって、本当に最初しか感じることはできない。
いつの間にか何十年もそれをまとって、その場所で暮らしたり眠ったりしているように、自分にとって当たり前になり、他のものよりも急速に馴染んで行くのだから。

するりと馴染んで行けるのは、魂がそれに先に馴染んでいるからだろうし、それが自分に実はふさわしいことを魂が知っているからでもある。そこにこそ、安らぎが存在するのだから。

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