刹那と永劫のはざまにあるもの

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ダイエットでも何でも継続。
目指してた体重になってから、維持することが大切。
大学入試でも入ってからが本番
目標に達すること、欲しいものを得たらそれで終わりなのではない。
ゴールはどこなのかってこと。

本当のゴールはシンプルに、死ぬ時であることは間違いがない。

だからこそ、自分が欲しいものが手に入ったときのことを覚えていたい。
どんな気持ちだったかを忘れないでいること、手に入っている「今のわたし」がいつの間にか当然にならないでいることが、とても大切だと思っている。

目的を果たした自分が驕ったり、しないようにいること。

最初からその高さにいたのではなく、一段一段階段を登ってきて、まだ上り続ける意識を忘れないということ。

仏教の教えでは、継続も一刹那の連続ととらえる。その一刹那とは、その次の瞬間に変化してしまうことを覚悟せよ、と彼らは説く。

それが執着をしないということだ、と。
ずっと長い間この考えを正しいと信じて固執していた。

だから、何かあるとすぐ、変化を受け入れて手放さねばと思っていた。

本当にそうなのだろうか。それで未来を信じることってできるのだろうか。
次の一瞬に終わったり変わると覚悟していて未来を描けるのかということである。
わたしにはできなかった。

いつか死に行く、と次の一瞬とでは切羽詰まり方が違うといっていい。

未来を描いて継続することと、ただただ、一瞬の連続として継続することは意味合いが違うのだ。

階段の先に何があるのかを知って登るのと、ただただ階段を上り続けるのが違うのと同じである。

目的に向かうための階段は、その目的や対象に対しての思考がより重ねられ、より理解するということに他ならない。それこそが未来を描き続けるということなのだろうなと思う。

時間はお金で買えない。
上る階段の過程と言える人生そのもので何を自分は選択するのか。
未来が描けるのかどうか、これは実は大きな問題だと未来を見つけてからわかった。それまでのわたしは町中でただ修行だけをしていたのだ、ということがわかったから。

明日は一緒にいられないかもしれない。嫌いになられるかもしれない。そう考える刹那の連続は恐怖や不安しか生まない。

同じ未来を共有したい、同じ目的に向かっていたい、そう思うから信頼も生まれ、大事にしたいという思いも生まれる。
逆に言えば、同じ未来や目的を共有している相手を粗末にしていないか、自らに問うことでもある。

後悔しないように、過程を忘れず、死ぬまで目的に向かって歩むことが継続であり、自分の生を全うすることなのではないかというのが最近の結論である。

刹那と永劫の共存という仏教的な世界観でもあるけれど。コンビニエントにハウツーで人の話を聞いてわかることなどたかがしれている。自らの思考と体験を通して限りない宇宙を感じるために何をするべきかは明確なんだろうとおもう。

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