受容と信頼

2012-03-04 12.14.32

 
最近になってようやく、信頼できることの素地ってなんなのかその鍵がわかったような気がする。

それは幾度も信頼関係を築こうとしながら、いや、築けていたつもりで実際のところ信を問われるような状況ではそのあたりが揺らいでいることがあらわになるといったようなことがプライベートでだって、仕事関係でだって少なからずあったように思う。

だから私は「信頼」という言葉が苦手で、「その人間関係にあった距離感で」「見返りを求めず自分が最善と思うことをする」という、あまり相手にコミットメントしないやり方を旨としてきた。

私が先ほど書いたようなコミットの仕方をするようになったのは、やはり「受け入れられない」感を感じることや自分と相手の何かを天秤にかけるようなことに疲れてしまったからなんだろうと思う。

人間はどうしても比較をするから、「私の方が〜だ」とか「相手に〜させている」みたいに思う時期があると思う。それが常態になってしまうと「慣れ」になってそれが「当然」になって「感謝」が生まれない代わりに「軋轢」や「不満」が生まれる。

私は「受け入れられない」感もその関係に「慣れて当たり前になる」ということも誰かとの関係で陥ることを警戒していたんだろうなと今思う。

それぐらい人間関係だとかに疲れていたといえばそう言えるのかもしれないけれど。

だから、親しげな部分とものすごく冷たく感じる部分が混在していることが見えてしまった人にはつきあいづらい人間だとも思うし、基本的に今でもその方針が大きくずれることはない。

だけれども、多少ならずともその「他人行儀さ」が私生活では問題になることもあったりする。近しければ近しいほど相手の「親密度」は上がるのだから、家族なんかが良い例かもしれない。何度「他人行儀な」と言われたかわからないほどだけれど、今となってはどう振る舞えば「家族らしい」のかもよくわからない。

誰にでもその人の「許容量」があって、それが自分に向けられている割合が自分の期待値よりも小さいと、自分の思いなんかは関係性からあふれてしまうし、期待値よりも大きいと相手が物足りなく思ったり、相手の存在を重く感じてしまう。

これはお互いそれぞれ環境や性格で全く違うからこれがぴたりと合うことなんてないんだろうとも思う。それに、ぴったりは合わなくても、「この人の許容量はこれくらい」と推し量ることでうまく付き合いができることもあるだろう。

そうやって「愛しすぎないように」とか「深入りしすぎないように」「迷惑かけないように」とか思っていることは関係にはうまく働くこともあるけれど、自分は満たされるのかというとそうでないことも多い。それだけでは済まず、関係性に気を使いすぎた結果、それが度を超して結果的に相手をものすごく怒らせることもある。よかれと思っていたことが相手に伝わらないことで、自分の本心が何を求めていたかなんて気にも留めなくなる。

拒絶だとか裏切りだとかを経験するよりもその方がずっと楽だし。
社会生活を円滑に送るためにはこれはこれで快適だ。

何かを信じようとした時、その根拠みたいなものを人はいつも求めると思う。それが確実であろうがそうでなかろうが。その根拠が「確実」だとか「本当」って思えたとき人は信じるという気持ちを何かに求められるんだろうと思う。

今まで私はその根拠がいつも弱くて信じるという気持ちがいつもぐらぐらしていたのは、「受容」というところにポイントがあったように思う。自分はだせるだけの許容量で最善を尽くすけれど、相手はどうかを見ないでいるということは、受容のバランスが完全に狂っている。

宗教というのが比較的簡単に人との関係を築くのが苦手な人々にとって受け入れられやすいのは「受容」されるという行程が省かれている(双方向ではなく、信心の一方通行でいいということ)ことともつながるような気もしている。

相手は受け入れるけれど、受け入れられているのか、それが本当なのかを見ないようにしているのだから、信じられるわけないのであって。

でも自分が満たされるだけの根拠を提示され、コミットメントを求められたら。

その伸ばされた手は、今までの経過が長く、様々な経験をしてきていればこそ、握るのに勇気がいる。また辛い思いをするかもしれないと思うとしっかりとは握れない。握っているつもりでも握力が弱いかもしれない。

しっかりとその手を握っていると感じられる(信じているとわかる)のはその相手の体温を感じるからで、手をつなぐという行為が信頼ならば、相手の体温を感じるということが相手を受け入れるということなのかもしれない。触れ合わなければ熱は伝わらないし、指を絡めることだってできないのだから。

もちろんもっと簡単に考えて、容易にできる人だっているだろう。

私自身はそうではないからずいぶんと遠回りしてたくさん考えてきましたが。
だからね、誰とでも手なんてつながなくっていいと思う。
でも、誰かの手の温かさを知って、手をつないでいられるっていうのは物の見方がずいぶん変わるよっていいたい訳で。

それまでわからなかった自分の親しい人への「他人行儀さ」加減だとかも、少しはわかるようになったりしたことで、見えなかった一面が見えてきたり。

覚悟をして渡った分、ご褒美として見えてくる世界は本当に自分を変化させるにふさわしい、何か。
そしてそれこそがきっと、求めていたものなんだろうってこと。

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