人間の耐性とある決意

2014-01-20 16.26.21

エスキモーの人だったかなぁ、ずっと首を絞められているとそれになれちゃうんだって言う話を聞いたことがある。(どうして首しめるんだったかは記憶にないんだけれど、大阪の「みんぱく」で見たビデオで聞いたんだと思う。あまりにも衝撃的だったからずっと覚えている)

首を絞めるという具体的に肉体に及ぼされる行為であっても、精神に及ぼされる行為であっても人間はその目的や理由を納得さえすればそれに順応して耐えられるように変化していくんだということをそのときに何となく理解したような気がする。

それは「ありうべき姿」だとか「希望的観測」とかなんでもいいんだろうとも思う。私がずっとこの国で求めてきたものだって実はそうだったのかもしれない。それがあったからこそ、自分の心が壊れそうな出来事があっても、そこにすら「希望的観測」と言うよりは一歩はなれると「無理矢理良い方に転換する」または「諦観」というこの国にいるとうまく使わないとやっていけないこの仏教思想を手だてとしてエクスキューズをしてきたのだろうと思う。

エクスキューズをし続けて、何を得て何が変わったのだろうか。私はずいぶん忍耐強くなったし、相手の思いを汲み取り、理解するということにかけては本当に高い能力を持つことになったと思う。じゃぁ、それに応じて環境は変わったのかというとそうでもないというのが結論だ。理解を示すことが相互の関係を良くしていくのではなくむしろ、相手にマウンティングされる、助長されるチャンスを与えるだけのものだと。

論より証拠、この国では「誰かからお金をもらった側」と「もらえなかった側」が争いを続ける。彼らはお互いの手の内を良く知っているから相手にマウンティングされるようなチャンスは与えない。ただひたすらにそのグループの人たちが思う「ありうべき姿」を追求して、首を絞めあうだけのことなのである。

これはもう「ネバーエンディングストーリー」終わりのない物語、と呼ぶにふさわしい、いろんなことに耐性のない彼らが実はこんなところで強力な耐性を発揮するのはなかなか皮肉だなと思いますが。

この物語に気がついた時点でもう麻酔は切れちゃうんですよね。シンデレラが舞踏会で夢見心地に王子様とダンスをしていたのと同じ感じ。本当はぼろぼろの洋服でいたのにねって。首を絞められていたら苦しい。裏切られたら心が痛い。人間が普通に暮らしていると普通に感じる感覚が心身によみがえってくる。

あたりまえのことなんだけれど「こんなに痛かったの?」「こんなに苦しいこと今までしていたの?」

何やってたんだ?と思う。

ある場所で出会うべくして新しい友人ができた時、彼はここに希望と夢と将来をかけていたと思う。その彼に私を含めて数人の新しい友人達が出会って一斉に同じ見解を彼に話したという。その友人達も皆10年以上のキャリアの持ち主だそうで。

ほぼ一年かけて彼は友人や私の意図するところをあっという間に汲み取り、一年前とは全く違う彼らしい方向性を見つけたことを話してくれた。

「思考」する人間にとって、その流れを抑制されて同じ結論にだけいつもたどり着くようにするなんて言うのは本当に苦しいことで。そしてそれが世界のマジョリティーでもなんでもないし、自分にとって「正しい」と思えることでもないのであればその苦しさを許容してまで自分の思考や行動を抑制することには何の意味もない。

自分の思考が抑制されない、ドラッグのような、自分が正しいと思えない誰かの「ありうべき姿」や「希望的観測」で惑わされもしない場所だってあるはずだ。

ありのままでいくという決意。安い酒のように酔いきれない美辞麗句はいらない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください