身に合ったもの。

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フリーランスで仕事をし始めた頃に、当時人気のアナウンサー(今は大御所)がかいた恋愛もののエッセイが人気になった。彼女の文章力と表現力を持って織りなす様々な男性との恋愛についての持論はあの国の女性エッセイブーム先駆けとなったと言っていいだろう。

あまりにも辛口で表現が面白いので日本語にしたら話題になるかもしれないと数冊読んだのだけれど、その中の一冊に「合わない男といるのは、カップの合わないブラジャーをつけているようなものだ。」という一節があった。女性にしか感覚として理解できない許しがたい不快感の表現として今でも忘れられない。

実際問題として、合わないサイズのものを使っている不快感というのは、おそらく人によってまちまちで、私なんかは個人的にとても不快で仕方がないけれど、甘んじていると慣れてくる。だらだらと合わないものを許す体に自分がなっていっている気がしていた。これはある意味恐怖。笑 合わないものを使っていると「これでも実はいいんじゃないか」と思ってしまうのだけれど、実は違う、やっぱり全然違うのだ。

合うもの、フィットするものは体がしゃんとしてより自然体で心地よくいられる。

合うものを使っていると体が喜ぶというのは何も下着や靴に限ったことではないのだろうけれど、より肌に直接触れるもの、長く使うものほどその差が大きいし、そういうのに無頓着だとそれが外にも実は現れているのかもしれない。

でも実は自分に何がどのサイズが「合う」かを知らないと、こういう喜びというか、「合う」ことで得られる開放感を体験できないのではないかしらと思う。

道路状況の悪い国で、ピンヒールを封印していたのだけれど、履いても大丈夫なチャンスを逃さず、週に何度か足を入れるようになると、足がちゃんとピンヒールに「合って」くれる。この心地よさ、もう何年忘れていたろうという感じ。

肉体の持つこの感覚はちゃんと風化せずに残っている。自分らしく、美しくある有り様は自分の中にちゃんとあるのだという証でもある。

そんなことを思いながら身繕いをしていると、これって人との繋がりでもそうなのではないかしら、とふと感じる。自分にフィットするものを知らないと、「これでいいのだ」と思ってしまう。自分に本当に合うものを知れば、もう「これでいいよ」とは思えない。最善は最適ということ。

(写真はお借りしました)