大切な人をどう呼んでいますか

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日に日にこの常夏の国も風が涼しくて、気持ち過ごしやすい時間が増えてきました。

この、アップデートの少ないブログですが、名前に関するエントリーは継続的にサーチをされて、訪問されています。

「呼び方」については言霊的な要素と関係性や尊敬を波動として伝える要素があると考えています。

付き合い始めて間もない頃、誰も呼んだことがない呼び方で彼を呼びたい、と思ったことがあります。それは今思えば執著のようなものだったのかもしれません。だけれど、それが全くフィットしない、彼にとってはなく、自分が相手を呼ぶに「ふさわしい」かどうかというのがあると感じました。

「呼び捨て」をすることは親しさの象徴ですし、私も憧れましたが、それもできない。私の相手に対する尊敬がそこに含まれないのです。愛情は含まれても尊敬が含まれない、それが私にとってフィットしなかったと言えるのかもしれません。

フィットしないことはやらない、「敬語でなくてもいいんだよ」と言われてもやはりそれも全部は外れない。その理由はシンプルで、相手に対して距離があるのではなく、愛おしく、尊敬している相手に対する自然な対応なのです。それを崩して近しくしてもそれは「無理」を自分にとって通すだけにしかならないのだと。

あらゆるパートナーがそうであるかというとそうではないかもしれません。自らの資質、相手の資質、年齢、立場、多岐にわたる要素が関係して、何が二人の関係で最善か、が導かれているはずです。

名前で呼ぶということが、言霊に届き、その良質な波動が周囲を満たすことの美しさについては触れたと思いますが、ただ名前で呼ぶことが大事なのではなく、そこに込められる「いとしさ」や「敬意」が自分の魂や相手に対する思いにフィットしているかどうかをよく見極めるべきだ、と今回はお伝えしたく思います。

この国では、ニックネームでも呼ばれない、ただ「マダム」と呼ばれることによってそういったプライベートな関わりから一線を画すことで立ち入りすぎない立場を保っています。(私は逆に彼らの名前をきちんと覚えて、声をかけることで、彼らとの関係を良くしています)名前という言霊「コード」の使い方の一つです。

自分の両親を名前で呼ぶ人がいらっしゃるとも聞きますが、こういう考え方と感覚で生きている私には理解し難い部分です。ですが、いろいろな魂の関係があるので、今(現世)は親子でも昔(前世)は共に戦う同士だったから、それがフィットして双方が最善だとするならそれも良いのかもしれません。

自らの内面を表すのがファッションだと考えたときに「色」にこだわるのと同じ様な気がします。

以前の私は自らの内面を隠す様に、ひたすら「黒」を着ていました。「マダム」と呼ばれる様にするのと同じことです。一方、「白」を着た自分は自身を明らかにしている様な感覚がありました。どちらが今フィットしているか、心地よいのかは自分の中ですぐわかります。誰かを呼ぶとき、その呼び方を通じて発せられることは、相手に対する愛情、リスペクト、自らの人間性を周りの人に向けて発信しているのですから、お洋服と変わらない発信力があるのだということです。

そういう心算で、周りの一人一人にフィットした形でエレガントに接していけたらと、年の瀬に改めて感じています。

名前というのはやはりマジカルなものです。だから名前をコロコロ変えるのはどうかしらと思うし、おざなりにするのも良くない。なんにせよ、名前をつけるときはその名前をつけられるものへの未来と思いをたくさん感じて渾身のエネルギーを込められることが必須で、それができないということはときが満ちていないということなのかもしれないとも言えます。

生まれながらについている名前はそうそう変えられませんから、大事に吟味して、その名前に込められたものを精一杯体現できる様な働きをと思います。そのために外部から与えられる無形の力が「名前を呼ぶ」ということなのではないかと思っています。